明日は誰にもわからない
アドラー心理学における「共同体感覚」とは、「友情、仲間との関係の問題、およびそれにともなう誠実、信頼、協力傾向、さらに国家、 民族、人類への関心」を内包する。
そこには自分だけでなく、他者への関心が存在している。
他者と結びついているという感覚だけでなく、他者に貢献したいという積極性も必要であり、他者視線(他の人の目で見て、他の人の耳で聴いて、他の人の心で感じる)を習得した、共感的態度を持つべきであると説く。
そこから共同体への所属感が養われ、心の平静が得られる。
所属感とは共同体から与えられるものではなく、共同体に貢献することで、自ら獲得して居場所を求めるものである。
アドラー心理学において人間の生き方を考察する際は、「共同体感覚」が不可欠になる。
人々をバラバラの個体で考えても理解はできず、他者を仲間とみなし、横のつながりで共同体を形成することで、健全なパーソナリティが育まれるとする。
この共同体感覚の欠如によって、社会における子どもの問題行動や犯罪行為が増長すると、アドラー心理学は指摘する。
共同体の論理を個人に押し付けることは、個人の自由を制限してしまうデメリットにもなる。
共同体としての拘束の強さは、宗教に顕著だ。信仰の対象となる教義や神聖なしきたりは、そのまま宗教という共同体の強い絆になり得る。
宗教上の教義が、共同体の論理として個人の論理を超えて設定されているのは、むしろ当然のことだろう。
「究極の存在」と、そこに少しでも近づこうとする目もくらむような遠い道のり。
信仰に篤い人ほど、または依存度の高い信者ほど、そこからの脱落は死と同等の(またはそれ以上の)恐怖であり、より共同体の論理にしがみつこうとあがく。それは決して利他とは呼べず、形を変えた利己主義とみなすべきだろう。
さいきん宗教2世だった人のnoteを読んでいるが、新興宗教になるほどその教えは、他者への不寛容と徹底した忠誠心を要求する傾向を帯びる。
熱狂的信者獲得の目的化と、粛清による組織の純化は、かつての新選組や日本赤軍の内部構造と大差ない。
そうした家庭に生まれた子供の不幸を、彼の文章や秀逸なイラストから教えられる(無断転載禁止とあるので、ここには載せない)。
狂信的な親が我が子に与える体罰(虐待)は、すべて「あなたのため」を思って行う所業であり、その根底に「私のため」があることに、気づかないまま一生を過ごすのだ。
信仰に生きるのではなく、それにすがるのであれば、我が子を巻き込む救いのない生き地獄を過ごすしかない。
そうした過度な信仰心も含め、「共同体感覚」となるのだろうか。
アドラーの「共同体感覚」は、特定の集団への忠誠を求めてはいない。
むしろ共同体の存在は、人間の個人の生活に先行していたと定義づけている。
自分を他者のように感じる能力を研ぎ澄ますことで、生まれつき持っている「共同体感覚」に行きつくはずであると考える。
「共同体感覚」には固定化された目的はなく、人生への態度を作り出すこと がその目的である。個人が人間的に成長するための、必要不可欠なツールというわけだ。
だから「個」を捨て「全体」に身も心も捧げてしまう先のような事例は、「共同体感覚」に当てはまらない。
アドラーの説く「個」はあくまで最重視すべき対象であって、「個」の生きる世界に、共同体が先だって存在していたというに過ぎないのだ。
ところで現代の主流の価値観では、自由で自律した主体的個人を想定している。
こうした主体的個人の偏重の結果、周りへの関心や、人間が他者と交わる存在であることの意味が見失われてしまう。
人間の存在が「自由で独立した個人によって基礎づけられる」というのは、歴史的事実を無視した虚構である。
人間は一度たりともそのような存在であったことはないし、これからもそのような存在とはなりえない。
粗野な競争中心主義の現代社会は、他人の自由や権利を妨害しなければ何
をしてもかまわない、他人が傷ついても仕方がない、という思考になりがちである。
これでは、支え合いによる「共同体感覚」は担保されない。
1990年代以降、自己責任という美名のもと市場競争主義を賛美するネオリベラリズムの改革論が、猛威を振るってきた。
その(少なくとも一部の)結果として日本は疲弊し、世界もまた惨憺たる様相を呈してきている。
人間は一人では生きられない。
その自明の理に回帰する意識を持ち、偽善に陥ることなく「共同体感覚」を取り戻すこと以外に、我われ人類が明日への展望を持つことなど不可能だ。
イラスト Atelier hanami@はなのす