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はがれたラヴェル

日本に戻った当時22歳の僕は、一目散にラヴェル『ピアノ協奏曲 ト長調』のレコードを引っ張り出した。1~2度(あまり身を入れず)聴いたまま、何年も放置していたアルバムだ。

サンソン・フランソワのピアノ、アンドレ・クリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団の演奏。
つまづきは第1楽章。ジャズのイデオム、あるいはそのフレーバーの盛り沢山にかかった音楽が、中途半端さを感じさせる。そんならラヴェルやめて最初からジャズ聴くわ、みたいな反発があったんだろう。

クラシック音楽といえば、常についてまわるのが「精神性」。ラヴェルのピアノ協奏曲は、それとは異なる地平に立っている。
ジャズの「本質」というより、その娯楽性に光を当てたかのような軽薄な印象が、22歳の青二才にとってぬぐえなかったからかもしれない。
いま聴けば、数多あまたの要素が渾然一体となり熟成されたその響きに、陶然とうぜんとさせられるのみなのだが。

ラヴェルが1928年に米国をツアーした際、「ジャズ、黒人霊歌、オーケストラの素晴らしさに感銘を受けた」と書いている。ジャズは10年代初頭から、パリで人気があったのだ。

1931年10月に出版された音楽評論家ピエール・ルロワとのインタビューで、ラヴェルは以下のように語っている。

私の唯一の望みは真の協奏曲、つまり深遠さを披露しようとするのではなく、ソリストの技巧をはっきりと際立たせる、素晴らしい作品を書くことでした。
手本として、このタイプの作曲を最もよく表していると思われる2人の音楽家、モーツァルトとサン=サーンスを取り上げました。
このひな形に従い、当初は「ディヴェルティスマン(余興)」と名付けようと思っていたこの協奏曲には、3つの慣例的な部分が含まれます。
最初のアレグロはコンパクトで古典的な構造で、その後にアダージョが続きます。
アダージョでは特に「スコラ哲学」に敬意を表したいと思い、できる限り丁寧に書こうとしました。
同様に、最も不変の伝統に従って考案されたロンド形式の活気ある楽章が最後にきます。

Quoted in Orenstein (2003), pp. 485–486

鋭い鞭の音に始まり、その後に5つの主題からなる提示部が続く第1楽章は、最初の主題がバスク地方の民謡、次にスペインの影響、そしてジャズの表現法に由来するものだ。

ところでその時の僕は、第2楽章から聴き始めた。
ロイヤル・アルバート・ホールで名も知らぬ奏者が響かせたその旋律に、魂ごと持っていかれた感覚でいたからだ。

最初のテーマは、ピアノのみの無伴奏で始まる。
ラヴェルはモーツァルトのクラリネット五重奏曲・ラルゲットのテーマをモデルにしたと述べている。
ただし、モーツァルトのメロディーが20小節にわたって展開するのに対し、ラヴェルは1小節も繰り返さず、さらに長い34小節のメロディーを構築していく。
ラヴェル自身は冒頭のメロディーについて、こう述べている。
「なんと、小節ごとに改訂したのです!危うく私は、自分を墓場まで連れて行ってしまうところでした」「あの流れるようなフレーズ!小節ごとに私はどれほどの苦労をしたか!死ぬかと思いましたよ」

ここまで作曲者自身を追い込んだ第2楽章だが、それをフランソワ、クリュイタンス、パリ音楽院管のレコードで改めて聴いたとき、嗚咽おえつが止まらなくなった。

これはラヴェルにしか書けない音楽に違いないが、他のラヴェルの作品とは質的に違う。
形式と職人技が織りなすメロディーの構築は、作曲者が作り上げた”虚構”の世界であり、それゆえに美しい。
同じ作曲の工程を踏みながら、この音楽から響いてくるのは内面の吐露とろである。人工美ではなくラヴェル自身の心象風景であり、ある種の郷愁(ノスタルジア)を感じずにはいられない。

なつかしさには、「個人的ノスタルジア(なつかしさ)」と「歴史的ノスタルジア(なつかしさ)」の2つがある。
個人的ノスタルジアとは実体験の記憶に由来するもので、歴史的ノスタルジアとは社会的・文化的な知識から生じるなつかしさのことだ。

個人的ノスタルジアが「エピソード記憶(自分自身に関する記憶)」に基づいて形成されるのに対し、歴史的ノスタルジアは、歴史に関する「意味記憶(外的な事象、言葉、概念に関する知識)」に基づいて形成されると考えられている。

田舎の田園風景、大正・昭和初期や西武開拓時代の建物になつかしさを感じるのは、個人的経験ではなく、なつかしい風景や建物としての知識に基づいている。古き良きものへの憧れとして、なつかしさを感じるわけだ。
僕たちが育った文化の中で、「なつかしいもの」としてテレビや本などを通して学習したものであり、同じ文化の人の中で共有されている社会・文化的記憶といえる。

その、普遍的ともいえる歴史的ノスタルジアが発動し、山上さんじょうで迎える日の出や秋の夕暮れの抽象的な美と同じように、えもいわれぬ感情が呼び覚まされるのだ。

第1楽章と第3楽章の、人工美の極致のような音楽にはさまれたアダージョ・アッサイは、「虹色のハーモニー」と呼ばれ、聴くものの心をつかんで離さない。それはこの稀有けうな音楽職人が、人生の終わり近くに初めて見せた、素顔の自分だったのかもしれない。

いつも表面をおおっていたラベルをはがした作曲者は、この曲の初演からほどなくして交通事故に遭い、失語症を悪化させ、創作が困難になる。
「私の頭の中にはたくさんの音楽が豊かに流れている。それをもっとみんなに聴かせたいのに、もう一文字も曲が書けなくなってしまった」と嘆いた。そういう意味でこの楽章は、ラヴェルの遺言になったのかもしれない。

演奏は実演含め、いろいろ聴いた。けっきょく僕にとっては、フランソワとクリュイタンスのこの盤「しか」ない。他がダメというわけでなく、ピアノ協奏曲=この演奏くらいに、自分の中で分かちがたくなっているためだ。

参考までにもう1枚だけ挙げると、いま入手可能かわからないが、ロルフ=ディーター・アレンスがピアノを弾くハインツ・レーグナー指揮ベルリン放送交響楽団がユニークだ。
通常8分台、フランソワ盤で9分程度の第2楽章に、11分40秒費やしている。この演奏に入り込むと、すでに気分は半分、あっちの世界だ。

イラスト Atelier hanami@はなのす

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