Smoke on the kamado
用を済ませ車に乗ると昼が近い。小腹が空いてくる。
調理用に使う清酒もほしいし、そのまま行きつけのスーパーに向かった。
生鮮食品を見て回るが、なんとモノの値段の高いこと。今夏の天候不順の影響らしいが、通常の倍の値段の野菜が珍しくない。これに消費税が加算されるのだから、たまったもんじゃない。
子育て中の現役世代は物価高騰に収入が追いつかず、ご苦労されている世帯も多いことだろう。
昼は緬と揚げたての天ぷらにしようと思い、うどんの玉をかごに入れ、鮮魚コーナーを覗く。ここでエビの値段を見て、再度げんなりさせられる。これじゃ量を別にすれば、外食するのと大差ない。
ならば、冷凍エビのコーナーはどうだろう。見るとこっちは生エビの半値か、それ以下のものもある。いいじゃん。
解凍にちょっと時間がかかるにしても、殻は剥かれているし背筋もピンと伸びている。実に手間いらずだ。
ラッキ~と思い、次の瞬間「待てよ」となる。
数種類ある凍ったパックを裏返し、生産国を確認する。たいがいの表示は、アノ国産であった。
あ~あ、現実は甘くない。いかに安かろうと、アノ国産で調理した物だけは口にしたくない。製造工程で何をして何が入っているか、分かったもんじゃないからだ。
結局、国産加工のシーフードミックスを購入した。
量は半分、なのにお値段は高めだが、野菜と混ぜてかき揚げうどんにすれば使いきりで無駄もない。
それにしても、輸入コスト分確実に高くなるはずの外国産の方が、国産よりはるかに安くなるからくりとは何だろう。このままでは輸入依存度はますます高まるだろうし、それでは国内にカネが循環しないから、いつまで経っても国民の給料も上がらない。
今は衆議院選真っ盛り。政府与党は得意のばらまき政策を前面に打ち出す。野党も現実味の薄い○○の無償化策を、こぞってうたい始めた。
国民から巻き上げた税金を選挙対策で撒くより、徴税しなければいいだけの話だ。しかしたいがいの政治家は、口が裂けても減税を口にしない。
増税大好き財務省を敵に回したら、どんな目に遭うかわからない。警察より強制力ある、国税局を抱える組織だ。言うこと聞いていていれば、おらが町の選挙区のインフラが整備できるし、選挙民だって票を入れてくれるってもんである。国民よりもまずは次の選挙を優先しなくちゃ始まらない。議員の特権、離してなるものか。
と、思っているかどうか知らないが、こっちの目にはそう映る。この固定化された悪循環を断つには、やっぱりドンパチでも始めていったんリセットしなきゃ、治らんもんだろうか。そんな事態になればそのまま世界が終わってしまう可能性も、なくはないが。
なんて物騒な話は別として、日本には「民のかまど」という必殺の言い伝えがある。それはこんな話だ。
5世紀前後の頃のこと。ときの仁徳天皇は高い山に登り、民の暮らしを見渡す。そこには炊事の煙が上がっていない人家の光景が広がっていた。
そこで仁徳天皇は、この地域は水が少なく災害や飢饉に見舞われており、人々は食べるものも十分に手に入れることができていないため炊煙が上がっていないのだろうと考える。
「民の釜戸に煙が出ていない。国中のものは皆、貧窮している。ならばこれから三年の間、すべての人民の課役(税金など)を免除しよう」
そして民の生活が豊かになるまでは食事も着る物も倹約し、宮殿の屋根の茅の穿き替えも行わなかった。
仁徳天皇のこの仁愛が通じたか、民は熱意を持って働くようになり、次第に豊かさを回復していく。
宮殿は荒れ、至る所で雨漏りするようになっても、「民が富んでいるのは、自分が富んでいることだ」と仁徳天皇は喜ばれる。
それは、天が人君を立てるのはひとえに民のため、民こそが大御宝であるとの考えからであった。
時が過ぎ、仁徳天皇が再び高台に登り民の暮らしを見渡しみれば、家々に煙が立っている。「民のかまどは賑わいにけり」と詠まれた。
民の幸せこそは天皇の幸せ、これは現在の皇室にも伝承されている、我が国本来の在り方である。
通常の国々であれば、国王とは支配者を指す。
強大な権力と武力を笠に、国民を自身の統治下におく力の支配こそが人類の歴史だ。
なぜか日本の皇室のみが、その常識から逸脱している。
天皇の「本業」とは全国の行事に顔を見せる事ではなく、国民の幸せをひたすらに祈る宮中祭祀にこそあるのだ。
今の日本は民主主義の世の中、のはずである。読んで字のごとく、それには民が主体でなければならない。しかし現実はどう見ても、それから遠く乖離している。
民の代理人に過ぎないはずの「代議士」に様々な特権が与えられ、「先生」と持ち上げられては更に勘違いを重ねる。人心よりも御身第一に生きるなら、代議士の職責は台無しである(シャレのつもり)。
仁徳天皇と今の時代と、どちらが「民主主義」と呼ぶにふさわしいか。
我欲に凝り固まった政財官の絶望的な状況にあっても、国体としての皇室を頂く我が国に、希望が絶えたわけではない。希望という名のかまどの煙は、今もなおくすぶりつける。
腐敗した「権力」に委ねるのでなく、民の力をもって「権威」を復興させれば、これからだって遅くない。
善き為政者と共に、かつて在ったこの国独自の「民主主義」を取り戻せば、かまどから再び煙を立たせることは可能なはずだ。
イラスト Atelier hanami@はなのす
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