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円の始点と終点
ソナタ形式は、旅のようなものだ。
何かを求め、長年親しんだ家を後にし、新しい出会いや出来事に遭遇しながら、自らも変容していく。
求める何かを得たと思えた旅路の果てに、人は住み慣れた我が家へと帰っていく。
家に始まり、家に終わる。
物理的な変化は何もないのに、家を出るときと帰って来たときのその人は、同じ人物でありながら全く異なる存在になっている。
「最初に終わりがある」とは哲学的な表現になるが、人が物語に感じる「面白さ」の典型的パターンに、冒険や旅はもっとも相応しいかもしれない。
冒険や旅には、行って帰ってくるか、行って帰ってこないか、そのいずれかのエンディングしかない。
行って帰ってくる旅は、「いろいろあったけれど戻って来れた、よかった」となり、鑑賞者にとって最もカタルシスを得られる起承転結になる。
いまの場所にいられなくなって旅立つ、新天地を求めて移動する場合は、旅に該当しない。
そして帰ってくることのできなかった旅、あるいは帰ってくることを選ばなかった旅は、どんな理由があろうと悲しみがともなう。
人生はしばしば、旅にたとえられる。その旅とは「ゆきて帰りし」ものなのか、それとも「ゆきて帰らざる」ものなのか。
チャイコフスキーの交響曲第6番『悲愴』の最後は、コントラバスが心臓の鼓動を模したように響き、死に絶えるように消えていく。臨終の場面が厳粛にしてリアルに描かれ、静かに結ばれるのだ。
「ゆきて帰らざる」瞬間を最後に置いたこの交響曲は、のちのマーラーによって、死にゆくものの表現としての頂点を迎える。
神が否定されて以降の人間の死生観とは、「天に還る」ものから「無に帰す」ものに転じたということか。
「ゆきて帰りし」旅には「最初に終わりがある」。
中国宋代の禅僧・廓庵による十牛図は、禅の悟りにいたる道筋を、牛を主題とした十枚の絵で表している。
ここで牛は、人の心の象徴とされる。あるいは牛を「悟り=ほんとうの自分」、童子を「修行者」と見立てる。
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第一図:牛を尋ね探す「尋牛」
心が荒れている。あばれ牛の如くに。かつて私は一匹の牛を家のあたりにつないだ。しかし、いつの間にか牛は手綱を断ち切って暴れだし、私に血みどろな傷を負わせて、遠い山に去ってしまった。荒れ狂っている牛のほえる声が私を不安にする。牛は猛り狂って田畑を荒らし、はては深い谷間に落ち込んで見事な頓死を遂げるかもしれない。私は疲れた心と、傷ついた身体に鞭打って牛を探しに出かけるのだ(以下、解説はすべて梅原猛によるもの)。
第二図:牛の足跡を見つける「見跡」
牛はなかなか見つからない。私は日一日、果てしない野原を歩き回ったけれど、どこにも牛は見当たらなかった。そしてまた高い断崖絶壁をよじ登ったけれど、私の見たのは、一面に荒れ果てた岩山ばかりであった。しかし、ある秋の夕、深い夜の闇が天地をおおおうとする一瞬前、私は森の入り口で、牛の足跡を見つけたのだ。
第三図:牛を見つける「見牛」
すばやく、そして用心深くその足跡を私はつけて進んだ。そして私は正しく見た。一匹の荒れ狂っている牛の姿を。牛は怒りにもえ、私を見て襲いかかってきたけれど、かくすことのできない疲労のようなものが牛の体にただよっていることを、一瞬私は見逃さなかった。
第四図:牛を捕まえる「得牛」
今だ、私は祈りを込めて縄を投げた。わが心よ獣の眠りを眠れかし。縄は見事に命中して、牛の首に巻きついた。牛はほえ叫び、逃げようとして暴れ回ったけれど、私は牛の首に巻きついた縄を金輪際離そうとしなかった。やがて牛は精魂尽きたかのように、どっと倒れて、死んだように動かなくなってしまったが、私もまた死せる牛のように疲れていた。
第五図:牛を飼いならす「牧牛」
手綱をひいて私は家に帰ろうとした。私はいささか得意になって、牛に言った。「暴れ牛よ、お前がどんなに暴れても、結局、おれにはかないはしまい」。牛は私のそういう言葉に反抗するかのように時々、暴れ出そうとした。しかし、その度ごとに、私はたづなをきつく引いて私の優越感を確かめた。
第六図:牛に乗って家に帰る「騎牛帰家」
山を越え、野を越え、牛と私は村里の近くにきた。今まで雲に覆われた月も、そのまろやかな姿を雲の間から見せ始めた。牛はおとなしくなり、私は牛の背の上で心も軽く、歌を歌ったのである。楽しきかな人生である。
第七図:あるがままに生きる「忘牛存人
家へ帰って、私は牛をつなごうとすると、ふっと、牛は私の手から消えたのである。牛は確かに今しがた私の前にあったはずなのに、忽然として牛は失せた。巨大な牛が見る見るうちに気化し、ひとつの映像のようになって、すっぽりとわたしの心の中にすいこまれるように消え失せたのである。それは一瞬の幻想のようでもあった。あたりに無限の静けさが漂い、私は冷たい月光に照らされて、独り己の心を見入ったのである。
第八図:空白となる「人牛倶忘」
また、不可思議なことが起こった。心をじっと見入っているうちに、私自身が消失してしまったのである。私と私を取り巻く世界もすっかり消え果て、世界は白い霧のようなものに変化してしまった。私もまた白い霧のようであり、私が世界であり、世界が私でもあった。透明で、清潔な完全な真空の世界で私の心も真空な満足に酔っていた。
第九図:本源に還る「返本還源」
しかし再び、あの真空の世界に草が生え、花が咲き、鳥は歌い、春が来るのである。すべてはもとのままのようであり、生は、希望の歌を高らかに歌い始めているではないか。柳の緑の鮮やかさ、紅の花の美しさ、世界は改めて無限に豊かな色に輝きわたっているではないか。
第十図:人の世に生きる「入鄽垂手」
このように再び、本にかえり、万物が豊かな色を示す世界に、私は何事も起こらなかったかの如く帰ってゆく。脚を現し、腹をむきだし、一見愚者の如くに、町にさすらい歩き、物にあえば物に親しみ、人にあえば人と笑い、見知らぬ人の間で、慈悲を世界にふりまいて生きている。
路上に横たわるホームレスのおじさんも、実は「ゆきて帰りし」智者であるかもしれない。
(次回に続く)
イラスト Atelier hanami@はなのす