男がいて女がいて 生きていけるの
「LGBT理解増進法」とは何か。内閣府ホームページにはこうある。
曲がりなりにも最高決定機関である国が明示する一文だが、これだけ読んでなるほどと得心のいく国民が、どれほどいるだろうか。
「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性」なんじゃそりゃ?
聞き慣れないカタカナ英語が使われるとき、それは従来の日本にはない他国から持ち込まれた概念と捉えるべきだろう。それを言うならLGBT自体、すべて外来語の頭文字になる。
ではなぜ、こうした「性的指向」の方たちを我々が理解しなければならないのか。それは以下の理由に拠る。
「固定観念や先入観を持ち」「偏見や差別を持つ人が少なくありません(日本語としておかしい。ここで使うなら”差別意識”)」とは、LGBTに限った話なのか。
「性的指向は本人の意思で簡単に変えたり選んだりできないにもかかわらず」。だから何だというのか。
そもそも人間は、生まれる場所も時代も、知的・身体的能力も、自ら選ぶことは出来ない。「親ガチャ」なんてイヤな響きの単語が定着しているように、自分の出生を不運と嘆いて暮らすか、宿命・天命と捉え精一杯生きようとするか。
そのとき万人全てに共通するのは、心の持ちようという一点しかない。
なぜそうした個人の内面の問題に、国家権力が介入してくるのか。
「T」のトランスジェンダーは、生まれついての性質とされるから分けて考える必要がある。
それ以外は、「男に発情する男」も、「女に発情する女」も、「男にも女にも発情する男・または女」も、指向性というよりも本人の「嗜好性」によるものだ。「嗜好性」を言い出すなら、たとえば「自分の妻にしか発情しない夫」も「好みが合えば誰にでも発情する夫」も、すべて性の一形態となる。妻は後者のような夫の「性的指向」であっても、認めるべきであろうか。
当然、小児性愛者(ペドファイル)、動物性愛者(ズーフィリア)、屍体性愛者(ネクロフィリア)も「性的指向」の一形態となり、LGBTPZNという概念はこれにあたる。
LGBTという「性的指向」の理解を促進しようとするなら、なぜPZNが認められないのかという反発が生じるだろう。現に世界で、動物と結婚した事例は幾つも上がってきている。
多数者(マジョリティ)がこうした事態を「おかしい」と思わず「多様性」と歓迎するようになっていくなら、人類に希望ある未来などありはいない。
「多様性」という美名のもと果てしない細分化が進むほどに、世界は不安定化し、混乱が拡大していくだけだ。
最近、1979年のヒット曲『HOW! ワンダフル』が、やたらと沁みてくるんである。昭和の「当たり前」は、今だって「当たり前」なはずである。
(明日に続く)
イラスト Atelier hanami@はなのす
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