子どもとの関わり
先日、訳あって「子どもとの関わり」というタイトルでエッセイを書くことになった。駄文ではあるがご一読いただければ幸いです。
それではどうぞ…
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私は子ども好きらしい。長年連れ添った妻がそう言う。
小さい子どもが近くにいると、視線を送って変顔を作り構っているのだそう。
自分には自覚は無いのだが、そうなのかもしれない。そして視線の先の子どもはにこやかな顔で笑う。
こちらも心が和み、笑みが零れる。
そう言われてみると、知人の子どもとも、よく遊んでいたし、子どものほうから寄ってくることも多い。
そんな自分だから、縁あって幼児保育施設に職を得たとき、妻が「あなた、それは天職よ」と言った。
前職の保育施設で過ごした日々、それはそれは楽しかった。それまで所属していた組織は相次ぐ合理化と再編の嵐で、結局は縮小され消えていった。その大きな流れに翻弄され、心が疲れ切っていたのだと思う。
「こういう毎日もいいな」
子どもと遊びながらそう思った。
その日々の中で印象に残っている子どもの思い出を書き綴る。
その子は女の子、私が働き始めた年に入園してきた子だった。
その施設では乳幼児から小学校入学前の未就学児まで、随時入園を受け付けている。
その子は4歳児からの途中入園だったせいか、他の子ともあまり馴染めずにいた。
ある日のこと、午前中の保育が終わり、園庭で遊んだ玩具の片づけ忘れがないかを見回っていたときのこと。
「ちょっと力を貸してください」
年中の担任だったベテランの保育士さんと、その春に新規採用された新人保育士さんが私を呼ぶ。
「どうしたんですか?」
理由を訊ねる。
「この春に入園してきた女の子が1人、ロッカーの奥に隠れて出てこないんです…保育園イヤだ、おうちに帰りたいって…いっしょにご飯食べようって、誘ってもらえませんか?」
いま考えると、なぜ私だったのかはわからない。ただ単に頼みやすかっただけかもしれない。
その女の子はベソをかきながらロッカーから出てきて、他のお友達も交えて、いっしょにご飯を食べることになった。
特に何か特別なことをしたわけじゃなく、「もうお昼の時間だから、いっしょにご飯食べようよ」と誘っただけ。それでもその子の対応に困っていた担任の保育士さんからは感謝された。
毎日のようにお昼ご飯とおやつをいっしょに食べて、帰りを見送る。そんな日々がしばらく続いたが、次第に仲良しのお友達も増え、お友達と遊ぶことが多くなっていき、無事に卒園していった。
その子のことを偉いと思ったことがある。それは、私が他の子と遊んでいるときも、間に割り込んだりしないということだった。きちんと周りとの距離感を持って、けっして自分のわがままを通したりしない子だと思った。
それから、毎朝一番に登園して、保護者のお迎えも一番最後になる子がいた。
その子は男の子。とても頭のいい子だった。いつも難しい質問を投げかけて保育士さんたちが答えに困っていた。周りの子たちと話が合わなくてイライラしていた。
「どうしてみんな、自分の話がわからないんだろう…」
たぶん、そういう思いが彼をイラつかせていたのだと思う。
私はいつも話し相手になっていた。彼にとっては自分の問いかけに対して真摯に答えてくれる大人の一人だったのだろう。
彼もやがて他のお友達とも仲良く遊べるようになって卒園していった。
この3年間、大勢の子どもたちと関わってきた。私の周りには常に“ちょっと寂しい子”が多かった気がする。抱える寂しさはそれぞれだけど、その答えを私の中に求めて集まっていたように思う。
子どもも人格を持った1人の人間。まだ生まれてから日が浅いだけ。足りないのは知識と経験。
子どもたちの問いかけに、少しだけ先に生まれた人生の先達として、真摯に向かい合える人間でありたいと願う。