鈴鹿へ...真夏の空の下で
10年以上前、東日本大震災の年の夏に書いた雑感である。バイク雑誌に投稿したが採用はされなかった。日の目を見ることは無いと思っていたが、再度推敲して公開してみよう。
「それ」を意識したのは何時の頃だっただろうか?
1985年夏、「三ない運動」真っ盛りの高校生活を終え、ようやく二輪免許を取得して初めての夏に「それ」はあった。
2ストロークと4ストロークの違いもよくわからず、「ヨシムラ」「モリワキ」といったステッカーの意味さえ知らず、ましてや「平忠彦」だの「ケニーロバーツ」だのの名前など知る由もない、無知だった10代最後の夏。
正確に言えば名前ぐらいは頭の片隅にあったのだが、それは「バイクレース界の凄い人」という「記号化」された何かであった。「平忠彦」が、映画「汚れた英雄」で草刈正雄演ずる「北野晶夫」のライディングシーンでバイクスタントを担当していた人物で、「ケニーロバーツ」が当時最高峰のGP500クラスで三年連続チャンピオンに輝いた人物であることを知るのは、それからしばらく後のことである。
1985年夏、数多のバイク雑誌は「彼ら」の話題で持ちきりだった。優勝ペア(たしかガードナー&徳野だったように思う)には申し訳ないが、あの夏の鈴鹿サーキットは、まさに彼らの独壇場だった。
1985年夏、全てのライダーは鈴鹿に向かわねばならないような雰囲気があった気がする。だが、もちろんそんなことがあるわけない。巷はバイクブームの真っ只中。当然の如く夏の北海道はツーリングライダーで溢れ、峠のワインディングはレーサーレプリカを駆るやんちゃなライダーで溢れ、大多数の無関係なライダーたちが街に溢れていた。
かく言う自分も、何が凄いのかもわからないのに「そんなスゲェんだったら行ってみようか」と思いつつもバイトに明け暮れ、金も暇も無いまま、ついにその思いは果たされなかったのであった。
1985年夏の鈴鹿、それはあの時代を知る多くのライダーたち共有の記憶では無かろうか。
国内最速ライダー「平忠彦」と偉大なるキング「ケニーロバーツ」のコラボレーション。それは現代で言えば、公道での事故で早世した故「阿部典文」が草葉の陰から甦り、天才ライダー「バレンティーノ・ロッシ」とペアを組んで参戦するに等しいインパクトがあったのではないだろうか。
今ほど情報が豊富でも無く速くも無い時代の話である。今まで見たことも無いようなパステルカラーを纏う新開発のマシンと、まさに雲の上の存在の国内最速&伝説の世界チャンプの組み合わせ、ポールポジションにコースレコードのおまけ付き、しかもスタートの失敗による最後尾からの追い上げ、トップを快走しながらもゴール三〇分前のエンジントラブル…そしてリタイア。
これをドラマと言わずして何をドラマと言おう。
あの時代、あの空気感を共有しながらも、それを自らは目の当たりに出来なかったことが、心のどこかにしこりとなって残っていたのだろう。
やがて時は過ぎ2010年夏、ふいに鈴鹿へ行こうと思いたった。
きっかけは鈴鹿8耐の前夜祭に行われる「バイクdeあいたいパレード」への参加。所属するオーナーズクラブで毎年参加者を募っているのだが、例年ならば参加する気にならなかった。
興味や関心が無いのではない。居住地から鈴鹿は、ただひたすらに「遠い」のである。ところがその夏は「たまたま」トランポに使えそうなワンボックスが実家に放置してあり、「週末の高速料金1000円」も年度内で終了とのアナウンスもあり、これを逃すと機会が無くなるかもしれないという焦眉の念に駆られたことが背中を押し、また、小学二年生になった息子に、いろいろな「世界」があることを知ってほしいといった、半ばこじつけのような理由を思いつく。
かくして息子を連れて行くことについて妻から若干の反対はあったものの、最終的には鈴鹿行きを了解してもらい、その日に備えたのであった。
そうと決まればもう心は上の空、仕事など手に付くはずもない。バイクの車載や車中泊に必要なものあれやこれやと揃え、高速道路のルートを確認し、過去のいろいろな本を読んではまだ見ぬ鈴鹿の夏に思いを巡らす。
まるで遠足を待ちわびる子供の気分である。もう、いてもたってもいられないのだ。
そしていよいよ出発の日を迎えた。
前日の夕方に出発、夜通し高速を走って朝方に到着し、サーキットの駐車場で仮眠を取るつもりだった。しかし、思いの外ペースが上がらなかったのと、朝の高速渋滞に巻き込まれたことで到着が遅れてしまった。
もうすっかり夜が明け、朝の日差しは今日の暑さを予感させるように眩しかった。だが、それ以上に高速を降りた瞬間に感じたのは、鈴鹿の街を上げての歓迎ムードである。
「そうか、これは二輪の祭典だけど、それ以上に街の祭典なんだ」としみじみ感じる。
鈴鹿サーキットという世界的に有名なモータースポーツ施設を擁する鈴鹿の祭典。街の誇る文化としてモータースポーツが日常の風景に存在する街なのだということに、ただひたすら感動した。
1980年代、熱に浮かされたようなバイクブームのまっただ中、鈴鹿8耐には10万人もの若者が詰めかけていたという。その中のひとりになりそびれた中年男が20有余年を経て、初めて降り立った鈴鹿の地は想像以上に暑く、そしてやさしかった。
熱狂の時代が過ぎ、去るものは去り、もう鈴鹿8耐はかつてのような賑わいには及ばない。8耐はもう終わりだと嘯く人もいる。しかし自分が見たものは、毎年のようにそうしているが如くライダーを歓迎し、包み込んでくれる鈴鹿の人々の姿であった。パレードの間のわずかな時間、わずかな距離の中で手を振ってくれた、沿道の名も知らぬ多くの市民の方々に感謝したい。自分は20有余年バイクに乗ってきて、これほどまで他人に歓迎を受けたことは無かった。思い切って参加してみて本当に良かった。素直にそう思えた。
1985年夏の鈴鹿。あの熱狂の時代に10代最後の夏を迎えた自分が「そこ」にいたとしたらどうだったのだろう。今の自分は同じことを感じただろうか。「あの夏」に置き忘れてきた「何か」が無ければ、そもそもバイクに乗り続けることは無かったかもしれない。冷めた口調で「あの頃」を語る鼻持ちならないオヤジになっていたかもしれない。
2010年夏。息子と過ごした鈴鹿はアツく、そして何よりも楽しかった。
季節は巡り2011年の夏である。困ったことにワンボックスは車検が切れ、「週末高速料金1000円」も終了し、収入も目減りするかもしれないというのに、再度の鈴鹿行きを決めてしまった自分がいる。もちろん小学三年生になった息子も一緒だ。パレードに参加し、スタートの瞬間を観てから隣接する遊園地で遊び、ゴール後の花火を名残惜しそうに見上げながら帰路に付き、高速の上でしみじみ余韻に浸るのであろう。
この「病」は当分治りそうもない。
これを書いた2011年から2017年の夏まで、息子と一緒の鈴鹿行きは続く。