脳腫瘍の愛猫との1年間のお話 【思い出すのが辛すぎた最後の日々】
6月20日の夜から愛猫べべは立ち上がることができなくなった。その日まではよろよろとおぼつかない足取りながらなんとか移動していた。目は見えていたのか定かではないが、水、自分のベット、家具の位置などは把握しながら、どうにかこうにか部屋を行き来していた。
その夜、仕事帰りの主人を玄関まで出迎えに行ったその場所でべべは歩くことができなくなり、その場でうずくまり動けなくなった。そのべべを主人は抱きかかえてべべのベットまで運んできた。その時、私達夫婦はまた明日になればよろよろと立ち上がったりするだろうとそこまで深刻に考えていなかった。
だが、次の日からべべは本当に寝たきりになった。水も食料も受け付けなくなった。ペットシーツをひいたべべのベットの上で横たわったまま、ときおり歩きたそうに脚と手をバタバタと動かしていた。そして、その眼はしっかりと私達夫婦の動きを追っていた。
”とうとう最後の時が来た”と思った。かかりつけ医と電話で相談し、特別な処置は行わず、べべを見送ることにした。私ができるのは時々、身体をひっくり返してあげること(床ずれ防止)、水を含ませたコットンで口を湿らせてあげること。のみだった。苦しかった。最後の最後にこれだけしかやってあげられないのか。ただ死にゆくのを見守るしかないのか。無力感でいっぱいだった。
かかりつけ医の経験では水だけで1ヵ月生き延びた猫ちゃんがいたそうで、私は心底びっくりした。だが、通常はこの状態に陥ったら持って2,3日。体力のある猫ちゃんで1週間という話だった。私はべべなら1週間持つのではないかと漠然と思っていた。
主人は少しでも不快感を取り除いてあげたいと、砕いたステロイドをチュールに混ぜて毎朝、べべの口に含ませていた。これも心が折れる作業だ。猫の弱った姿を顕著に感じる作業だからだ。これをべべが天国に行くまで毎日続けた主人を尊敬する。
私はというと、一日に何度かべべをひっくり返し、コットンで口の中に水を流し込み、排せつがあればペットシートを交換、清潔にするということを続けていた。驚いたのはべべの眼はいつでも私を追っていたし、すごく力のある眼をしていたことだ。台所に行ったり、トイレから戻ったりしてもずっと私を見ていた。音で私の位置を把握していたのかもしれないが、明日、明後日に亡くなる様な、そんな弱った眼ではなかった。
そして、この状態がなんと4週間も続いた。。。。
かかりつけ医は、「べべちゃんは脳腫瘍があるが、内臓関係は本当に健康だから。」と仰っており、私もその通りだと思ったが、その事実が私を苦しめた。今、べべは何を考えているのか、辛くはないのか、苦しくはないのか、ただただ辛い時間を過ごしているだけなんじゃないのか。と私は葛藤し始めた。
相変わらず力のある眼をしていたが、当たり前だが日に日にやせ細り、骨が浮き出し、自慢の毛の艶は消え去り、べべの身体の水分は抜け、ひっくり返す度にその軽さに泣き、あどけないべべの顔を見つめながら私はもう正気を保てないと思った。時折、家を出て気分転換したり、ドラマを見たり、気を逸らしていた。
そんな中、すっかり姿が変わってしまったべべに真正面から向き合い続けたのは主人だった。
「べべの温もりがあるうちに、抱っこしておきたい。」とよく膝の上にのせていた。一回も衰弱するべべから目を逸らしたりしなかった。私は弱かった。
そして、頭によぎったのは安楽死。もう死なせてあげたほうが楽なんじゃないか。いまの状態はべべにとって残酷なのではないのか?4週間を過ぎたあたりからずっと悩んでいた。だが、べべの眼はいつも私達を追っていたし、そこに意志があった。生きる意志があった。生きたいという意志があった。
私はというと、べべの葬式をして見送ってあげなければ。その思いだけでぎりぎりのところで踏ん張っていた。
そして、寝たきりになってから、6週間後の8月1日の昼にべべは天国へと旅立った。
べべの性格からしてきっと最後には立ち会えないと飼い主の勘で思っていたが、やはりそうだった。その日は主人は県外出張、私は在宅でべべの傍にいたが、トイレや台所の水仕事をしていたわずか6、7分間にべべの傍を離れた隙にべべは旅立ってしまった。最後の姿を見られたくなかったのだろう。
べべらしいと思った。11年半、あれほど私達を支え、楽しませ、癒してくれたのに、でもだからこそ私達を悲しませたくなかったのだろう。
べべは6週間、わずかなチュールとコットンからのわずかな水で生き抜いた。きっと何か意味があるのだろう。それはまだ私には分からない。もしかしたら、まったく意味なんて無いのかもしれない。だけど、私は5年でも、10年でもその意味を考え続けるだろう。
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