奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業
要約
・はじめに
エピテトスは、ローマ時代のストア派を代表する哲学者である。
彼は、奴隷の両親から生まれた苦労人で、彼自身も若い頃は奴隷として過ごし、解放された後は私塾を開いて生計を立てた。
地位や財産や権力とは無縁な、ごく平凡な市井の庶民が、いかにして真の自由を享受し、幸福な生活にあずかることができるのか。
そのためにいかなる知識が大切なのか――。
彼の言葉には、現代人のみならず、およそ人間につきまとう共通の悩みや不安を一変させるような起爆力が秘められている。
・求めると不幸になるもの
ストア派の基本戦略は、「我々次第であるもの」と「我々次第でないもの」の境界を正確に見極め、前者つまり自分の裁量の範囲内にある物事だけ、自分の欲望の対象を限定することにある。
エピクテトスが考える「自由人」も、先入観や偏見に振り回されず、自分ができること、できないことを見極めて行動できる人間のことであった。
エピクテトスの「提要」の冒頭、第1章にも次のような記述がある。
物事のうちには「我々次第であるもの」と「我々次第でないもの」との両者がある。
判断、意欲、欲望と忌避など、およそ我々の「こころの働き」によるものは「我々次第」だが、自分の身体や財産、他人からの評判、地位官職など、およそ我々の働きに寄らないものは「我々次第」ではない。
「我々次第であるもの」は本来、自由で、妨げられないし、他人から邪魔されない。
だが、「我々次第でないもの」は脆弱で、奴隷的で、妨げられてしまうし、自分のものではない。
地位や名誉、財産など――翻ってよく考えてみれば、我々が欲望を向けているものの多くは、実は自分にはどうにもできないものばかりだ。
これらは、多かれ少なかれ誰かの意向や時の運が絡むことが避けられない以上、完全に自分の裁量内にあるもの、つまり「我々次第であるもの」とは言えない。
真の意味で自由に生きるためには、こうした「我々次第でないもの」に囚われてはいけない。
それが幸福への近道なのである。
・他人の振る舞いに対して寛大になる
例えば、夫婦であれば、「部屋を片付けてくれない」「積極的に子育てに参加しない」、友人であれば「時間を守らない」「約束をすっぽかす」などは日常的なストレスの原因になる。
これらの事実を前にして、直ちにそれを善悪と結びつけて評価をするのは、ごく自然に我々がやっていることである。
だが翻って考えてみるならば、その行為の善悪は一体何で決まるのだろうか?
それには、「行為者当人」が「何を意図」していたか、「動機や目的」が決定的に「重要」である。
そうだとすれば、我々は他人の行動の「表面」だけを見て、その意図を正確に見抜くことなしに軽々に行為の善悪を判断するわけにはいかない。
たしかにある人の振舞いが、そばにいる人に不快感を引き起こしたことは事実である。
だが直ちにそれを、全面的に「悪い」と即断してしまってよいのだろうか。
場合によっては、何かやむを得ない事情が隠されているかもしれない。
習慣の違いもあるだろうし、しつけができていないという教育の欠陥かもしれない。
いずれにせよ、何らかの「無知」ゆえにそうした不適切な行動に及んだとすれば、そこには考慮すべき事情や当人が反省すれば改善できる余地がある。
事実を把握するところで立ち止まれ。そこから先の、善悪の価値判断を下すには慎重であれ。
・最も幼稚なのは、他人を非難すること
「無教養の者→他人を非難する」「教養の初心者→自分を非難する」「教養のできた者→他人も自分をも非難しない」と原文訳に書かれている。
ただし、「教養のできた者」の態度は「自分の不幸は誰のせいでもない」として責任をうやむやにしてしまうことではない。
エピクテトスならば「自分を甘やかすこともまた、事実を認識する目を曇らせることになる」と戒めるに違いない。
いったん感情は脇において、事実を事実として受け止める。慌てて一喜一憂しない。
ストア派の基本戦略は、「我々次第であるもの」と「我々次第でないもの」の境界を正確に見極め、前者つまり自分の裁量の範囲内にある物事だけ、自分の欲望の対象を限定することにある。
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