サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福
要約
・虚構が協力を可能にした
近代国家にせよ、中世の教会組織にせよ、古代の都市にせよ、太古の部族にせよ、「人間の大規模な協力体制」は何であれ、「人々の集合的想像」の中にのみ存在する「共通の神話」に根ざしている。
教会組織は共通の宗教的神話に根ざしている。
国家は共通の国民神話に根ざしている。
司法制度は共通の法律神話に根ざしている。
これらのうち、人々が創作して語り合う物語の外に「存在しているものは一つとしてない」。
宇宙には神は一人もおらず、人類の共通の想像の中以外には、国民も、お金も、人権も、法律も、正義も存在しない。
想像してみて欲しい。
もし私たちが、川や木やライオンのように、本当に存在するものについてしか話せなかったとしたら、国家や教会、法制度を創立するのは、どれほど難しかったことか。
・農耕がもたらした繁栄と悲劇
人々はとても利口になり、自然の秘密を解読できたので、ヒツジを飼い慣らし、小麦を栽培することができるようになった。
そして、そうできるようになるとたちまち、彼らは身にこたえ、危険で、簡素なことの多い狩猟採集民の生活をいそいそと捨てて腰を落ち着け、農耕民の愉快で満ち足りた暮らしを楽しんだ。
これは人間の暮らし方における革命、すなわち「農業革命」だった。
だが、この物語は夢物語にすぎない。
人々が時間とともに知能を高めたという証拠は皆無だ。
農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民よりも「一般的に困難」で、「満足度の低い生活」を余儀なくされた。
農業革命は史上最大の詐欺だったのだ。
農耕民の暮らしは、狩猟採集民の暮らしほど安定していなかった。
狩猟採集民は何十もの動植物の種に頼って生きており、したがって、たとえ保存食品の蓄えがなくても、困難な年を乗り切ることができた。
一方、農耕社会はごく最近まで、カロリー摂取の大半をわずかな種類の栽培化された品種に頼っていた。
小麦やジャガイモ、米など、単一の主要食料だけに依存している地域も多かった。
もし雨が十分降らなかったりすれば、農耕民は何千から何百万という単位で命を落とした。
人々はなぜ、このような致命的な計算違いをしてしまったのか?
それは、人々が歴史を通じて計算違いをしてきたのと同じ理由からだ。
人々は、自らの決定がもたらす結果の全貌を捉え切れていないのだ。
種を地面にばらまく代わりに、畑を掘り返すといった、少しばかりの追加の仕事をすることに決めるたびに、人々は「たしかに仕事はきつくなるだろう。だが、たっぷりの収穫があるはずだ!不作の年のことを、もう心配しなくて済む。」と考えた。
それは道理にかなっていた。
前より一生懸命働けば、前より良い暮らしができる。
だが、彼らは「子供の数が増える」ことを予想していなかった。
子供が増えれば、余剰の小麦はより多くの子供が分け合わなければならなくなる。
また、初期の農耕民は、子供に前より多くのお粥を食べさせ、母乳の減らせば、彼らの免疫系が弱まることも、永続的な定住地が感染症の温床と化すだろうことも理解していなかった。
また、農作の年に殻蔵が膨れ上がれば、盗賊や敵がそれに誘われて襲ってきかねないので、城壁の建設と見張りを始めざるをえなくなることも、農耕民たちは見越せなかった。
それでは、もくろみが裏目に出たとき、人類はなぜ農耕から手を引かなかったのか?
一つには、小さな変化が積み重なって社会を変えるまでには何世代もかかり、社会が変わったころには、かつて違う暮らしをしていたことを思い出させる人が誰もいなかったからだ。
そして、人口が増加したために、もう引き返せなかったという事情もある。
後戻りは不可能で、罠の入り口は、バタンと閉じてしまったのだ。
「より楽な暮らし」を求めたら、「大きな苦難」を呼び込んでしまった。
しかも、それはこのとき限りのことではなき。
苦難は今日も起こる。
どれだけ多くの若い大学卒業生が、がむしゃらに働いてお金を稼ぎ、35歳になったら退職して本当にやりたいことをやるのだと誓い、忙しい会社できつい仕事に就くだろう。
ところが、35歳になったころには、多額のローンを抱え、子供たちを学校にやらねばならず、郊外の暮らしには一世帯に少なくとも二台の自動車が必要で、本当に良いワインと国外での高価なバカンス抜きでは人生は送り甲斐がないという感覚につきまとわれている。
彼らは一体どうしたらいいのか?
植物の根を掘り返す生活に戻るのか?
とんでもない。
彼らはなおさら一生懸命取り組み、あくせく働くのだ。
歴史の数少ない鉄則の一つに、「贅沢品は必須品となり、新たな義務を生じさせる」というものがある。
人々は、ある贅沢品にいったん慣れてしまうと、それを当たり前と思うようになる。
そのうち、それに頼り始める。
そしてついには、それなしでは生きられなくなる。
・神話により社会の拡大
キリスト教や民主主義、資本主義といった「想像上の秩序」の存在を人々に信じさせるにはどうしたらいいか?
まず、その秩序が想像上のものだとは、けっして認めてはならない。
社会を維持している秩序は、偉大な神々あるいは自然の法則によって生み出された客観的実体であると、常に主張する。
また、人々を徹底的に教育する。
そして、次の三つの主要な要因があって、自分の人生をまとめ上げている秩序が自分の想像の中にしか存在しないことに人々が気づくのを妨げている。
①想像上の秩序は物質的世界に埋め込まれている。
現代の建築では、この神話が想像の中から跳び出してきて、具体的な形を取る。
現代の理想的な住宅は、他人の目から遮られ、最大限の自主性を提供できるプライベートな空間が保たれている。
そのような空間で育った人は、自分が「個人」であり、自分の真の価値は外からではなく内から生じると想像せずにはいられないだろう。
中世の貴族は個人主義を信棒していなかった。
人の価値は社会のヒエラルキーにその人が占める位置や、他の人々がその人についてどう言っているかで決まった。
貴族は自分の子供たちに、どんな犠牲を払っても評判を守るように教えた。
このような状況で育った人は当然ながら、人間の真価は社会的ヒエラルキーにその人が占める位置と、他の人々がその人についてどう言っているかで決まると結論した。
②想像上の秩序は私たちの欲望を形作る
たいていの人は、自分たちの生活を支配している秩序が想像上のものであることを受け入れたがらないが、実際には、誰もがすでに存在している想像上の秩序の中へと生まれてきて、その人の欲望は誕生時から、その秩序の中で支配的な神話によって形作られる。
したがって、私たちの個人的欲望は、想像上の秩序にとって最も重要な砦となる。
たとえば、外国で休暇を過ごしたいという、ありふれた欲望について考えてみよう。
この欲望には自然なところも明白なところもまったくない。
古代エジプトのエリート層は巨額の費用をかけピラミッドを建設し、自分の死骸をミイラにしたが、バビロンに買い物に行くことや、フェニキアに休暇で出かけてスキーを楽しむことなど、決して思いつかなかった。
今日の人々が外国での休暇にたっぷりとお金を注ぎ込むのは、「ロマン主義的消費主義」の神話を心の底から信棒しているからだ。
ロマン主義は、人間としての自分の潜在能力を最大限に発揮するには、できる限り多くの異なる経験をしなくてはならない、と私たちに命じる。
消費主義は、幸せになるためにはできる限り多くの製品やサービスを消費しなくてはならない、と私たちに命じる。
どのテレビのコマーシャルも、何らかの製品あるいはサービスを消費すれば人生が良くなるという、小さな神話なのだ。
③想像上の秩序は共同主観的である
私が超人的努力をして自分の個人的欲望を想像上の秩序から解放することに成功したとしても、それは私ただ一人のことでしかない。
想像上の秩序を変えるためには、何百万という見ず知らずの人を説得し、彼らに協力してもらわなければならない。
なぜなら、想像上の秩序は、私自身の想像な中に存在する主観的秩序ではなく、膨大な数の人々が共有する想像の中に存在する、共同主観的秩序だからだ。
・無知の発見と近代科学の成立
人類は少なくとも認知革命以降は、森羅万象を理解しようとしてきた。
だが、近代科学は「進んで無知を認める」点で異なる。
近代科学は、「私たちがすべてを知っているわけではない」という前提に立つ。
それに輪をかけて重要なのだが、私たちが知っていると思っている事柄も、さらに知っていると思っている事柄も、さらに知識を獲得するうちに、誤りであると判明する場合がありうることも、受け容れている。
いかなる概念も、考えも、説も、神話不可侵ではなく、異議を差し込む余地がある。
進んで無知を認める意思があるため、近代科学は従来の知識の伝統のどれよりもダイナミックで、柔軟で、探求的になった。
そのおかげで、世界の仕組みを理解したり新しいテクノロジーを発明したりする私たちの能力が大幅に増大した。
・拡大するパイという資本主義のマジック
アダム・スミスが「国富論」を出版した。
スミスは次のような、当時としては斬新な議論を展開している。
すなわち、地主にせよ、あるいは靴職人にせよ、家族を養うために必要な分を超える利益を得たものは、そのお金を使って前より多くの下働きの使用人や職人を雇い、利益をさらに増やそうとする。
利益が増えるほど、雇える人数も増える。
したがって、個人起業家の利益が増すことが、全体の富の増加と繁栄の基本であるということになる。
自分の利益を増やしたいと願い人間の「利己的な衝動」が「全体の豊かさ」の基本になるよ言うスミスの主張は、じつは人類史上屈指の画期的な思想なのだ。
スミスは人々に、経済を「双方のためになる状況」として考えるように説いた。
この場合、双方が同時にパイのより大きな分け前を享受できるだけでなく、自分の取り分の増え具合が、相手の取り分の増え具合も左右する。
もし自分が貧しければ、相手の製品やサービスを購入できないから相手もやはり貧しくなる。
自分が幸福ならば、相手から何かを買うことができるから相手も幸福になる。
したがって、社会の中で最も有用で慈悲深い人間は金持ちだということになる。
近代資本主義経済で決定的に重要な役割を担ったのは新しく登場した倫理観で、それに従うなら、利益は生産に再投資されなくてはならない。
再投資がさらなる利益をもたらし、その利益がまた生産に再投資されて新たな利益を生む、というようにこの循環は際限なく続いていく。
投資の仕方にはさまざまな可能性がある。
これが資本主義と呼ばれる所以だ。
資本を構成するのは、「生産に投資される」お金や財や資源だ。
・文明は人間を幸福にしたのか
過去500年間には、驚くべき革命が相次いだ。
経済は指数関数的な成長を遂げ、人類は現在、かつてはおとぎ話にしかありえなかったほどの豊かさを享受している。
化学と産業革命のおかげで、人類は超人間的な力と物質的に無限のエネルギーを手に入れた。
その結果、社会秩序は根底から変容した。
政治や日常生活、人間心理も同様だ。
だが、私たちは以前よりも幸せになっただろうか?
もしそうでないとすれば、農耕や都市、通貨制度、帝国、科学、産業などの発達には、いったいどのような意味があったのだろう?
よくある見方に、人類の能力は歴史を通じて、増大の一途をたどってきたというものがある。
人間は一般に、悲惨な状況を改善したり、願望を満たしたりするために自らの能力を活用するのだから、私たちは当然、中世の祖先たちよりも幸せであり、また彼らも、石器時代の狩猟採集民よりも幸せに間違いないというわけだ。
だが、この進歩主義的な見方には説得力に欠ける。
「農業革命」で見たように、新たな適性や行動様式や技能が生活を向上させるとは限らない。
この数十年、心理学者と生物学者は、何が人々を真に幸福にするかを科学的に解明するという困難な課題に取り組んでいる。
それは、お金なのか、家族なのか、遺伝的特質なのか、はたまた徳なのか?
第一段階として、まずは何を計測すべきかを決める必要がある。
一般に認められている定義によると、幸福とは「主観的厚生」とされる。
この見方によると、幸福とは、たった今感じている快感であれ、自分の人生のあり方に対する長期にわたる満足感であれ、私が心の中で感じるものを意味する。
そこで、人々の幸福度を評価しようとする心理学者や生物学者は、被験者に質問表をわたして記入してもらい、その回答を記録するという方法を採る。
そして、興味深い結論の一つは、富が実際に幸福をもたらすことだ。
だがそれは、一定の水準まで、そこを越えると富はほとんど意味を持たなくなる。
洒落た高級車に買い替え、豪邸に引越し、高級なワインを飲むようになるだろうが、それらはどれも、ほどなくありふれた日常経験に思えてくるだろう。
興味深い発見は、まだある。
病気は短期的には幸福度を下落させるが、長期的な苦悩の種となるのは、それが悪化の一途を辿ったり、継続的で身体共に消耗させるような痛みを伴ったりする場合に限られるという。
糖尿病のような慢性疾患の診断を下された人々は通常、しばらく落ち込みはするものの、病状が悪化しなければ、この新たな状況に適応して、健康な人々と変わらないほど高い評価を自分の幸福度につける。
家族やコミュニティは、富や健康よりも幸福感に大きな影響を及ぼすようだ。
密接で協力的なコミュニティに暮らし、強い絆で結ばれた家族を持つ人々は、家庭が崩壊し、コミュニティの一員にもなれない人々よりも、はるかに幸せだという。
だが、何にも増して重要な発見は、幸福は客観的な条件、すなわち富や健康、さらにはコミュニティにさえも、それほど左右されないということだ。
幸福はむしろ、「客観的条件」と「主観的な期待」との「相関関係」によって決まる。
あなたが牛に引かせる荷車が欲しいと思っていて、それが手に入ったとしたら、満足が得られるだろう。
だが、フェラーリの新車が欲しかったのに、フィアットの中古車しか手に入らなかったら、自分は惨めだと感じる。
状況が改善すると、期待も膨らむので、結果として客観的条件が劇的に改善してもなお、満足が得られないこともある。
状況が悪化すると期待もしぼむので、結果として大病を患ってもなお、それまでとほとんど変わらず幸せでいる場合もあるのだ。
たしかに、預言者や詩人や哲学者は何千年も前に、「持てるものに満足する」ほうが、「欲しいものをより多く手に入れる」よりもはるかに重要なことを見抜いていた。
それでもやはり、現代の研究が昔の人々と同じ結論に達するのは喜ばしいものだ。
「仏教」によれば、苦しみの根源は苦痛の感情でも、悲しみの感情でもなければ、無意味さの感情でさえないという。
むしろ「苦しみの真の根源は、束の間の感情をこのように果てしなく、空しく求め続けること」なのだ。
そして感情を追い求めれば、私たちは常に緊張し、混乱し、不満を抱くことになる。
この追及のせいで、心は決して満たされることはない。
喜びを経験しているときにさえ、心は満足できない。
なぜなら心は、この感情がすぐに消えてしまうことを恐れると同時に、この感情が持続し、強まることを渇愛するからだ。
「人間は、あれやこれやの儚い感情を経験したときではなく、自分の感情はすべて束の間のものであることを理解し、そうした感情を渇愛することをやめたときに初めて、苦しみから解放される。」
それが仏教での瞑想の修練を積む目的だ。
瞑想するときには、自分の心身を念入りに観察し、自分の感情がすべて絶え間なく湧き上がっては消えていくのを目の当たりにし、そうした感情を追い求めるのがいかに無意味かを悟るものとされている。
ブッダが教え論したのは、「外部の成果の追求のみならず、内なる感情の追求をもやめる」ことだった。
以上を要約すると、主観的厚生を計測する質問表では、私たちの幸福は「主観的感情」と同一視され、「幸せの追求」は「特定の感情状態の追求」と見なされる。
対照的に、「仏教」をはじめとする多くの伝統的な哲学や宗教では、「幸せへのカギ」は「真の自分を知る」、すなわち自分が本当は何者なのか、あるいは何であるかを理解することだとされている。
たいていの人は、自分の感情や思考、好き嫌いと自分自身を混同している。
彼らは怒りを感じると、「私は怒っている。これは私の怒りだ」と考える。
その結果、ある種の感情を避け、ある種の感情を追い求めることに人生を費やす。
感情は自分自身とは別のもので、特定の感情を執拗に追い求めても、不幸にとらわれるだけであることに、彼らは決して気づかない。
もしこれが、事実ならば、幸福の歴史に関して私たちが理解していることのすべてが、じつは間違っている可能性もある。
最大の問題は、「自分の真の姿を見抜けるかどうかだ」。
古代の狩猟採集民や中世の農民よりも、現代人の方が「真の自分を少しでもよく理解している」ことを示す証拠など存在するだろうか?
人間には数々の驚くべきことができるものの、私たちは自分の目的が不確かなままで、相変わらず不満に見える。
カヌーからガレー船、蒸気船、スペースシャトルへと進歩してきたが、どこに向かっているのかは誰にもわからない。
その結果、私たちは仲間の動物や周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。
自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか?