サムライクリスチャン高山右近5十字架の道を選ぶ 有岡城の戦い
一度は織田家との敵対を表明した荒木村重でしたが、その後、織田信長から「母を人質に差し出し、「安土城」(あづちじょう:現在の滋賀県近江八幡市)へ弁明に来れば許す」と寛大な条件が出されたのを機に、織田家と対抗することに尻込みするようになりました。
そんななか、重臣の「中川清秀」(なかがわきよひで)が、荒木村重に対して、籠城を強硬に進言。高山右近も、その意見に押され、同調せざるを得なかったのです。このとき、隠居していた高山友照も、織田家からの離反を支持していました。
結局、居城の「有岡城」(ありおかじょう:現在の兵庫県伊丹市)での籠城を決めた荒木村重軍は、「有岡城の戦い」(ありおかじょうのたたかい)へと突入。高山右近は、高槻城で織田軍と対峙することになりました。すると織田信長から、「ただちに開城しなければ、修道士達を高槻城の前で磔(はりつけ)にする」という、苛烈な脅しが届いたのです。
城内では、開城と抗戦とで意見が割れ、収拾がつかない状況に陥りました。さらに隠居した父が、「もし織田信長に寝返るなら切腹する」と言い出したことで、高山右近の悩みは、極限状態に達していったのです。
そこで高山右近が出した答えは、「すべてを捨てる」ということでした。どちらにも加担せずに領地も家族も捨て、単身で織田信長のもとへ投降。高山右近は、頭を丸め、紙衣(かみこ:和紙で作った着物)のみを身に着けた姿で、織田信長のところへ現れたのです。
この潔さに感じ入った織田信長は、人質の救出と領地の倍増を約束し、出家を止めるように、高山右近を説得します。この手厚い申し出に対して断り切れなかった高山右近は、結局武将として、織田信長に仕えることになったのです。
なお高山友照は、荒木村重に加勢して最後まで抵抗を続けたあと、助命されて越前国(現在の福井県北東部)へ流され、キリシタンとして生きることを選びました。
マルコによる福音書 8:34 新共同訳
それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?