1932年/京都:モダン京都の断面か(002)

「1932年/京都:モダン京都の断面か(001)」は、桑原静雄、のちの竹之内静雄の三高入学を冒頭において書き始めた。彼の三高入学は、1932年4月。入学式の日付はまだ調べていない。

1932年5月17日に、富士正晴が、桑原静雄と野間宏を竹内勝太郎の自宅へと連れていく。このことがきっかけで、富士、桑原、野間の三人は竹内とある種の師弟関係を結ぶことになり、その関係から1932年10月には、同人雑誌『三人』が生まれることになる。
『三人』は、1940年まで、20号刊行された。

ところで、三人が、竹内の自宅を訪れた5月17日の二日前、東京では、5・15事件が起きていた。
桑原=竹之内は、「竹内勝太郎 その生活・探求」に、5月17日前後のことを記述しているが、5・15事件には言及していない。講談社文芸文庫になった『先師先人』『先知先哲』にある竹之内静雄の「年譜」でも、5・15事件に触れてはいない。
当時のメディア状況や情報伝達の在り方は、現在と大きく異なるので、なかなか正確にはつかめないのだが、5・15事件が起きると、ラジオでは臨時ニュースとして報道され、東京では、号外が出ている、という。京都での5・15事件をめぐるメディア状況や情報環境についてはまだ調べていないが、三高の生徒へもすぐに伝わったのではなかろうか。ただ、桑原=竹之内の文章には、回顧的ということもあるのかもしれないが、事件の影響は記述されていない。

気になるのは、例えば17日、三人が竹内の家を訪れた時、この事件は話題にはならなかったのだろうか、ということ。
17日の時点では、5・15事件についての情報の詳細は明らかになっていない。したがって、いろいろ深く詳しく論じることはできない。ではあるが、断片的情報をもとに、話題とすることはできそうには思う。
どうだったのだろうか。

5・15事件は、のちに明らかになるように、軍の一部と民間人による集団テロであった。
彼らのなかには、この年の初めに起きていた「血盟団事件」関係者とつながりがあるものもいた。
「血盟団事件」では、二つのテロが実行された。
1932年2月9日、東京で、血盟団員の小沼正が、前蔵相の井上準之助を射殺した。
1932年3月5日、これも東京で、血盟団員の菱沼五郎が、三井の理事長団琢磨を射殺した。
事件解明に乗り出していた警察は、血盟団という井上日召を盟主とするテロ集団の存在を把握し、その中に、東京帝国大学グループ、京都帝国大学グループなどがあることをつかむ。

京都帝国大学グループに属しリーダーであった田倉利之は、3月15日、東京の本郷区駒込の下宿先、福田方で、さらなる暗殺を狙っていたところを検挙された。
続いて、3月17日には、百万遍を北に上がってすぐの西側にあった下宿「勝栄館」で、京都帝大グループの一人、森憲二が寝込みに捕まり、10時過ぎに外出先から同じ「勝栄館」に帰宅したところを、もう一人の星子毅が捕まった。二人とも下加茂署へと連行された。
京都での逮捕現場となった「勝栄館」には、2月までリーダーの田倉利之も住んでいた。

「血盟団」の京都帝国大学グループは、三人だったようだ。1931年文学部史学科入学の田倉利之、1930年法学部入学の星子毅、1931年法学部入学の森憲二、である。

田倉は、入学後、剣道部に入部し、そこで、同じ部員の森、星子と顔見知りになった。田倉が、高校時代の人間関係から井上日召とつながり、そこから、京都帝国大学グループが形成されたようである。
まだ調査不足ではあるが、グループ形成に伴い、三人ともが、「勝栄館」に移ったように見える。

1932年になって、「血盟団」のテロ実行計画が、具体化され、やがて実行に移されていく。
政治状況は、ちょうど衆議院解散(1月21日)となり、有力政治家たちが、有権者の支持を得るために遊説などを行うというテロを行いやすい環境となっていた。(2月9日における井上準之助の暗殺現場は、選挙への応援演説会場だった。)

京都グループの動きを、地元にかかわるところを中心にたどっておこう。(これ以外にも複数の暗殺計画があり、いろいろ画策したようでもある。)
京都では、2月18日、國學院大学学生で血盟団メンバーの須田太郎が、「勝栄館」を訪れた。彼は、そこにいた田倉、星子、森の三人にブローニングを一丁と実弾12発を手渡した。標的は、若槻礼次郎だった。

若槻は前年の12月11日まで総理大臣をつとめており、立憲民政党の総裁であった。総選挙の応援のため、投票日直前は西日本を訪れることになっていた。

拳銃と弾丸を手渡し、目標を指示した須田が去ったのち三人は、なぜか、下宿を出た。少し南に向かい百万遍電停がある交差点角の路上で、実行の方向を決めたようである。
まず、当日2月18日、二条駅で、星子が若槻を狙おうとするがうまくいかず、松江で暗殺することになった。実行予定者は、森。森は松江に向かい、翌19日に演説会場や駅で凶行を及ぼうと試みたが、実行できなかった。
何も知らずに若槻はその後京都入りする。
京都グループは、2月21日、京都駅から午後10時10分発の列車で若槻が東京へ帰るところに照準を定める。田倉が拳銃を、森は短刀を隠し持ち、暗殺の機会を待つ。しかし、若槻が、予期していたのと別の動線で列車に乗ったため実行はできなかった。

つまり、2月18日から21日にかけて、「血盟団」京都帝大グループは、京都などでの、若槻礼次郎暗殺に動いていた、ということである。
幸い、さまざまな要素の重なりにより、実際には決行されなかった。

この事情のどこまでが、当時の人々に共有されたのか、さらに調べないと見えてこない。
しかし、関東軍が、31年9月18日の柳条湖事件を引き起こしたことで、日本帝国は、軍事的非常時の雰囲気を帯びていったのは確かである。右翼によるテロや、京都における右翼テロ未遂も、この雰囲気を濃厚にさせる因子であった、と捉えていいのではないだろうか。
1932年のモダン京都では、この軍事的非常時、右翼的非常時の分子が、発生し拡散していっていたように見える。

そのことが『三人』とどうつながるのか。そのことが「モダン」にどう関係するのか。
考えるべき問題かもしれない。


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