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存在のありどころ(疎外と暴力)
《存在のありどころ》を問えば、ただここにいて“茫然”としているそこと答える。
サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と言った。ただ立ち尽くし“茫然”としているのは『自由の刑』に処せられる姿なのか。
しゃべろうとしても“主語”になる言葉が見つからないので、代わりに古い友人に主語(おれ)になってもらう。
中上健次の初期の代表作『十九歳の地図』は、新聞配達をしながら生計を立てる予備校生の話だ。
主人公の「おれ」が日本史を唾棄する場面がある。
つまらない。誰が権力をにぎり、なにがつくられようとこのおれの知ったことか。日本史、なんのためにこんなものを理解したり記憶したりしなけれ ばいけないのか、さっぱりわからない。この教科書の記述とはほどとおいところでおれの先祖は生きてきただろうし、いま現在、おれはそれらの記述のおよばないところで生きている。日本史を読むこのおれは逆説だ、いやこのおれそのものが逆説だ、いやちがう、このおれはまっとうだ、まっとうでなくさかだちしているのは過去がつづいていまにいたっているのだと思っているこの教科書をつくった人間だ。
「おれ」の存在は暴力的である。
ノートに記した新聞配達の地図を見下ろし、一軒一軒に“バツ印”を付ける。脅迫したり爆破する計画を立てるために。
「おれ」はとんでもなく鬱屈した青年で、ずっと閉塞感を漂わせている。地図の上で人の命を手玉に取って神様気取りなのは、それこそ自分に対する逆説だ。
「おれ」がもし今でも、同じ縮尺の地図に、書き殴った稚拙な地図の上に、自分の“現在地”を見つけようとするならそれは悲劇だ、もしくは狂気だ。
GPSを使っても「おれ」の“現在地”は見つからない。どこにもないから。歴史の教科書にも、どの国の地図にも、インターネットにも「おれ」はいない。世界中が「オレ」だらけになっても、疎外された者はただ“茫然”と立ち尽くす。「おれ」の救難信号はどこにも届かない。
読むたびに新しくすばらい作品だと思った。十分に楽しめた。
だが、まだ“主語”は見つかってはいない。
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