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自己肯定感より確かなもの


自己肯定感を高める方法や、それに付随する情報はとにかく山ほど存在しています。

そして
幸いにも自分に合うものに出会えて好転していくというケースだって、山ほどあると思います。


しかし一方で

なかなか変わったような手応えがないとか
気づくと自己否定や自己嫌悪の方へ入ってしまい

「なんでいつも変われないんだろう」
なんて思ってしまうくらいなら


もうそんなに、自己肯定感を高めようと頑張らなくていいのかもしれません。


そして例えば

「自己肯定感が低いことは自己否定が強いきらいがあり、それはいわゆる自愛不足なため改善すべき」

など、この類の提唱にどこか焦燥を感じ居心地悪さがあるとしたら、もう少し肩の力を抜いていいと思うのです。


なぜなら、自愛は十分足りているから。



だって

「自己肯定感高めよう!」

そう頑張っているのは
誰のためでもなく、ご自身のためですよね。

そこには紛れもなく
自分へと向けられた愛があります。



たとえ頭の中で
自己否定の声が鳴り響いていようとも

根本の部分ではいつだって
自分自身から愛されていたのです。



だから
自己肯定感を高めようという試みに疲れたり
どうしたら良いか頭打ち状態なら
もうこれ以上試みなくていいのかもしれません。




あとそもそも

一概に言えるかはわかりませんが

自己肯定感が高い方が良い
自己肯定感が低いことは良くない

という概念が

自己肯定感が高い自分は良い
自己肯定感が低い自分は良くない

こういった解釈を知らず知らずのうちに生み

延いてはそれが信念のようになってしまうと

自分の存在を認めることが
条件ありきでなされてしまう。

条件とは外的要因のことです。
例えば、肩書きや容姿やステイタスetc...


自己肯定感を高めたいと思い
自身を肯定するために、条件を用いた場合

もしその条件がなくなってしまった場合
どうなりますか?

一気に自己否定側へと崩れる可能性は
非常に高いはず。

条件ありきの自己肯定は砂上の楼閣なのです。



「ならば、無条件に肯定したらいいのかな?」

それでしっくりくる方は良いかもしれません。

でもそれはつまり
自分の気に入らないところも肯定していく
ということになります。

心底肯定できるならもちろんそれでいいのですが

なんというか、無理矢理感を伴うことが
ほとんどじゃないかと思うのです。

肯定しよう、好きになろう みたいに

本心でそうは思えないけれど
頑張って思い込もうとしているような
一抹のプレッシャーを感じている。


これだと言わずもがな
根本解決には至りませんよね。


ならば「自己受容」でいきませんか?


無条件に肯定するよりも
無条件に受容する方が抵抗は少ないはずです。


自分の気に入らないところも
「それでもいいか」と受け入れる。

自分の気に入らないところを
気に入ることができるように頑張るのではなく。


否定したくなる自分の一面を
肯定したくなる自分になれるよう頑張っても

これは所詮脆いんです。先ほどの砂上の楼閣。


肯定or否定で
善し悪しのような尺度で測ることをやめてみる。

(そもそも、その善し悪しだって何を基準にしているのでしょうね?)


ただ単に自分はそういう気質を持っている
という事実があるだけ。
その事実に善悪ジャッジを加えなければいい。

そしてその事実を受け入れる。




どんな自分も認め受け入れることは
無条件の愛を自身へ向けているということ。

最強の自己肯定感を我が物にするよりも
絶対的な安心感がそこにはあります。




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