源信(二)
源信は9歳から比叡山で仏道の修行を始め、大変優秀であったことから5年後に得度している。またその翌年、村上天皇により法華八講を説く講師にも選出されて下賜を受けた。そして賜与の褒美の品を、大和国の故郷で暮らす母親へ送ったところ、意外にも送り返されてしまう。ところがこの源信のエピソードは極めて重要で、ひょっとすると源信の母親は、源信よりも優れた宗教者であった可能性がある。また紫式部は、源信その人よりも、この母親と源信がセットになった仏教観から影響を受けたと解釈した方が正解かもしれない。それは源信へ下賜の品を送り返した時の母親の諫言が真理を突いているからだ。またこの母は子に和歌という形で諫めの言葉を伝えている。以下はその和歌である。
「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給え」
この言葉を読んだ源信は母親に感謝し、権威や権力と一体化したような都の仏教界に残る道を捨てて、真の仏教の求道者となるべく横川の恵心院に隠棲する。日本の僧侶は古代から律令制を敷いた政府の官僚であり、世渡る僧となるということは、官僚になって出世することに等しい。そうした進路を源信の母親は悲しいと言い切った。誠に天晴れな御母堂である。
そして「源氏物語」に登場する「横川の僧都」の姿は、この隠棲した後の源信と重なって見える。なぜなら物語世界の「横川の僧都」は公務の修行を中断してでも、病身の母を心配して会いに行く人であり、また支配階級ではない瀕死の人間を放置せず、死の穢れを忌む支配階級の偏見にとらわれずに助けれる人でもあった。恐らく紫式部は、彼女自身が創作した「横川の想都」の行動を通して、民ではなく官に属する仏教組織や構成員の僧侶に対し、釈迦の教えに帰れと問いかけている。そしてこの問いかけは「横川の想都」のモデルらしき源信の思いを、紫式部が汲んだからこそのものだ。
そもそも釈迦は組織だって何かを計画し遂行しようとした人ではなかった。むしろ人間一人一人の意識改革によって、戦乱や搾取で荒廃した社会を善処していく道を模索していたと思われる。源信はそこを十全に理解していた。それゆえ彼の母親の諌言がなくとも、遠からず仏教組織とは距離を置く道を選んだのではないか。また隠棲して以降の源信は、完全な世捨て人にはならなかった。求道者としての姿勢が研ぎ澄まされてゆき、著作に打ち込むことで真摯なメッセージを社会へ発信し伝え続けた。まさに世渡る僧になるのではなく、後の世を渡す橋になろうと努力したわけである。また、後の世という未来が、この今の世の現在よりも救いのある善良な社会に到達するというビジョンがあってこそ、本当の宗教の存在意義がある。この真理が源信の母親の信仰心の核だ。そしてそれを受け継いだ源信その人も、偉大な宗教改革者であった。
源信の死後、百年以上の時を経て平安時代末期から鎌倉時代にかけて、日本の仏教には変革の波が到来しているが、その波動のスイッチを押したのは、多分この源信であろう。ここでスイッチを押すと形容させて頂いたが、それは具体的には「往生要集」を著したことだ。次回のnote源信(三)では、宗教だけではなく文学や美術にも大きな影響を与えたこの「往生要集」に関して述べてみたい。
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