社会にもまれ、思う。
「社会にもまれ、都会にもまれ、
親の偉大さをしるー」
っていう曲を最近よく聞く。
ショート動画を見ているとBGMで入っているのだ。
この頃仕事に疲れ、ぐたぐたになって帰ってくることがほとんど。
この曲を聴いて、
本当に、literallyこの通りだと思った。
解釈の余地もない。そのままだ。
親は偉大だ。
こんなに仕事は疲れるのに
帰ってきて家事をしたり
休日は子供と出かけたり。
自分だって休みたいだろうに子供のために
仕事でも家でも一生懸命に動いてくれる。
そんな親たちもかつては私たちのような若かりし辛い頃を経て
今の姿があるのだろう。
一番身近な存在であるはずなのに、私たちはその頃の親を知らない。
どんな辛いことがあったのか、親が話してくれない限りは知るよしも無いし、
親たちはわざわざ辛かった頃のことを子供には話さない。
私たちが生まれてきて見る親の姿は、「親」としての各人であって、
その前の姿はしらない。
子供からすれば親たちは生まれてきたときから完璧な親だ。
本人達がどう思ってようと、子供にとっては親は目の前にいるその姿の時点で完璧なものだと思っているのだ。
それが当たり前になっていて、彼らが積み上げてきたものも当たり前として見てしまっていた。
だけど考えてみよう。後数年して自分が子供を産むことになったら。
まだ完璧な人ではない。やりたいこともたくさんある。
だけど、子供を産んだ時点で「親」というレッテルが貼られ、
物理的にも精神的にも社会的にも束縛されてしまうのだ。
時間が無い。親らしくしなくてはいけない。自分のために築き上げてきた功績はどこへ。個人としての評価はどこへ。
私ならそう思ってしまう。
子供は働けない。
経済的にも子供ができた分だけ頑張らなくてはいけない。
親は偉大だ。
自分の時間を犠牲にしてここまで育ててきてくれた。
そして親も1人の人だ。
子供が知らない過去を持ち、たくさんのものを築き上げてきた1人の人である。
だからこそ世界で誰よりも敬い感謝しなくてはならないのは親である。
その気持ちを果たして私は今までにどれだけ伝えられてきただろうか。
いや今までは気づいていなかった、これほどの偉大さに。
天命を全うするならば、親は子供よりも先にいなくなってしまう。
いなくなる前に必ず伝えなくてはならない。
毎日でもいい。
すごいよ。
ありがとう。
そしてもう一つ伝えたい大事なことは
自分の人生を楽しんで欲しい。
子供が自立しようと、親が親であり子が子であることは変わらない。
でも手をかける必要は無くなったはずだ。
子供が自立するまでの20数年間にできなかったこと
20数年前にやりたいと願っていてできていないこと。
それらを全てやってほしい。
まだまだ社会にとって微力な私たちができることは
そんな親の助けになること。
そんなことを今まで親にかけてきた苦労を思い返し
涙を流しながら思う。
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