夜になると壁に出現する、黒い模様の話。
これは私が大学3年生のときに体験した、めちゃめちゃ怖い話である。
当時の私はというと、メディア社会学科という、
傍から見たら何をしているか全くわからない、流行りのカタカナ学科に所属しており、
ゼミを3本ほど掛け持ちした上に、サークルや課外活動にも手を出し、
二足どころか、わらじを何足も突っ掛けることを楽しんでいて、
そしてそのどこにも本腰が入っていないダメな学生だった。
そのことについては、今になって非常に反省をしているのでぜひ許して頂きたい。
そんなこんなで、わらじを何足も履きつつ、
3.11の被災地に取材へ行く活動に大学2年生から参加し始めた。
高校卒業と大学入学の狭間で3.11が発生して、たまたま地元でボランティアをしたことが大きく影響しているのだが、そのボランティアで見たことは、また別の機会に書きたいと思う。
取材活動を始めて1年くらいが経った頃、活動の指揮をしていた教授の繋がりで、とあるNPOのサポートメンバーに入れてもらえる機会を得た。
宮城県の宮戸島にあった小さな小学校(現在は吸収合併のため閉校)と、スマトラ沖地震の被災地インドネシアのアチェ州にある小学校をSkypeで繋ぎ、津波被災という同じ経験を持った小学生同士が、遠隔で国際交流するのを支援することがミッションだった。
当時、わらじを増やすことを美徳としていた私は、二つ返事で参加を決めた。
そして、宮城でサポートに入るはずが、
気付いたときには自分のアチェ行きが決まっていた。
ちなみに、アチェがどんな土地かご存知だろうか。
試しにGoogleで「アチェ州」と画像検索してみてほしい。
真っ先に出てくるのは“公開鞭打ち刑”の写真である。
普通に怖い。というか痛い。
おまけに当時、外務省情報を見るとアチェはいつも黄色か赤だった。
ISILの台頭によるものであった。
そう、アチェはインドネシアの中でもかなりハイレベルなイスラム圏なのだ。
内戦の末に自治権を獲得して、その後も独立を目指す武装勢力が蔓延っていたけれども、津波が来てそれどころでは無くなった、という経緯を持つ。
ここまでの要素でいくと、総じてめちゃめちゃ怖そうである。
黒頭巾の集団に拉致されて、祈りを捧げられて、血祭りに挙げられるのではないか。
ところがどっこい。
いざ現地に行ってみると、“のんびり”という言葉がぴったりの、超が付くほど穏やかな土地柄だった。
炎天下で氷を敷かずに営業する魚屋の前と、
順路という概念が全く忘れ去られた津波博物館の中では一抹の疑問を抱いたが、
一見すると、思い描いていた怖い要素は全く見当たらなかった。
黒頭巾よりも白ヒジャブのほうが多かったし、外国人にイスラム文化を強要することも無くて、公共施設以外は髪を晒して出歩いても問題無かった。
(※問題無いけど、基本ヒジャブを被ったほうが喜ばれますし、より安心です。)
そのうえ超親日エリアなので、日本人というだけで芸能人のような扱いを受けた。
私と写真を撮っても何にもならないのに、みんなが私と写真を撮りたがった。
ごく平凡な農耕民族顔の私がこんなにチヤホヤされたのは、後にも先にもこのときだけである。
全くまんざらでも無い。
なんだ、めっちゃ良いところじゃないか。
しかし、本当の恐怖はここからだった。
私を含めた学生のプロジェクトメンバーは、地元の名士の家でホームステイさせてもらうことになった。
家屋が2棟もあって、近所では豪邸として有名だった。
片方の棟には、ご家族の居住空間と、私たちがステイした部屋があり、
もう片方は遠方からやってきた女学生さんたちを下宿させる棟だった。豪邸の家事を手伝うことを条件に無償で部屋を借りて、そこから学校に通っているらしい。
彼女たちは、私たちを見つけるといつもニコニコして、Tシャツはもちろん、何故かパンツに至るまで笑顔でアイロンをかけてくれた。
私はメンバーの中で一番に現地入りしたので、最初は一人でステイしていた。
白い壁に囲まれたシンプルな部屋に、2人は余裕で寝られそうな大きなベッドが2つ。
クローゼットに鏡台に、エアコンまで付いていた。
お嫁に行った娘さんの部屋だったらしい。
夕方ごろ、ステイ先に着いた私は、
荷物を壁際に置いてベッドのど真ん中に寝そべり、ひとりで広すぎる部屋を占拠した。
それで当時最新だったスマホをいじって、撮った写真を整理し始めた。
2時間ほどそうやって、写真を整理したり、メールを書いたり、
Facebookをチェックしたりしていただろうか。
突然、腕や足にピリッとした痛みを感じた。
羽蟻が2~3匹ほどいて、私を食料と間違えていた。
食料と間違われても仕方ない体型だったからかもしれない。
ともかく、これだから東南アジアは困ったもんだと思いながら、手で追い払った。
そうして集中力が削がれたので、デバイスから目を離し、ふと壁を見た。
すると、さっきまで真っ白だったような気がするのに、床からベッドの高さくらいまで、真っ黒にペンキを塗ったような帯模様が、そこにはあった。
あれ?こんな模様あったかな…??
疑問に思いながら、その模様にじっと目をやった。
眺めてみると、その模様は心なしか動いているような気がする。
……動いているような気がする…??
私は不意打ちを食らった猫のようにベッドから飛び起きて、黒い模様に近寄った。
そして自分の目を疑った。
“蟻”だ……。
模様の正体は、蟻の大群だった。
おびただしい量の蟻が、けたたましい動きでザワザワと蠢いている。
一体、いつの間に、こんな量出てきたのだろう。
スイミーどころの可愛い騒ぎではない。
2メートルほどの横幅の、縦幅30~40センチくらいが、とにかくびっしり蟻なのだ。
先ほどの羽蟻は、この事態の単なる布石だったと気付いた。
床に目を移すと、床板と壁板の隙間から、蟻が続々と上がってきていた。
そして床の境目のラインを端から視線でなぞると、自分の荷物が見えた。
蓋の空いたスーツケースと、その横に置いたタオル入りのビニール袋は、蟻の大群に侵食され始めていた。
……!!!!!!!!!!
私は絶句すると、荷物を掴んで飛ばすように壁から離し、思い切り叩き始めた。
もう頭は真っ白になっていて、力任せに叩きまくった。
私も必死だったが、蟻のほうも必死だった。
なんせ生命の危機である。
蟻は蟻で、加害者である私を思い切り噛みまくった。
そうやって、お互い必死の、謎の格闘を15分くらいやっていた。
もしかすると、もっと短かったかもしれないし、長かったかもしれないのだが、
ともかく必死で、そんなことはどうでも良いレベルに必死だった。
ハッと、もうこれ以上は科学の力を頼るしかないと思い、
私は荷物を放り出すと、女学生さんたちがたむろしている部屋にすごい勢いで駆け込んだ。そして、「ant」と「bug」と「spray」というワードを壊れた機械のように繰り返した。
彼女たちは、私の様子に驚いて、そして困惑した。
彼女たちには、英語が単語の一つも全く理解できなかったのである。
それにも拘わらず、私が半泣きで3つのワードを繰り返して、わけの分からないジェスチャーをしていると、優しい彼女たちは何とか読み取って、最終的に殺虫剤を手渡してくれた。
お礼も早々に部屋に駆け戻って、半ば発狂しながら殺虫剤を振りかけまくった。
大混乱を起こす蟻を横目に、もうどうとでもなれと部屋のドアを閉めて、リビングに逃げ込んだ。
そうやって1時間くらいが経った。
部屋に戻って恐る恐るドアを開けると、壁は再び真っ白に戻っていた。
まるで何事も無かったかのようだった。
そして、あんなに大量にいたはずの蟻の、死体の一つも残らなかった。
まるで魔法に遭遇したかのようだった。
そうして、後日やってきた私のルームメイトたちは、その部屋で蟻の真っ黒ペイントを見ることなく、全行程を終えたのだった。
ところで、この魔法の殺虫剤は、一体何でできているのだろうか。
ラベルにはローマ字がたくさん並んでいて、そして一単語もわからなかった。
私はそっと鏡台に殺虫剤の缶を置いた。
これが、私の虫にまつわるめちゃめちゃ怖い恐怖体験である。
豪邸にも拘わらず虫が大量発生する、ということは、今でも私の中のカルチャーショック史に燦然と輝くトピックである。
その後、ミャンマーのワークキャンプで大型蟻の大群に洗濯物を食われたりとか、割とハイクラスのホテルでチャタテムシが群れで発生していたりとか、まあ色々見たものはあるのだけれど、おかげ様でこれ以上に仰天したことは無い。
私は東南アジアに行くとき、必ず日本製の虫除けを持参する。
そしてどんなに肌が荒れても、顔はもちろん瞼や耳にまで必ず虫除けを付け、ついでに布団にも噴射する。これはかなり有効だと自負しているので、ぜひ試してみてもらいたい。
そしてそのたびに、チヤホヤされなくても、やっぱり日本が良いなァと、
つくづく思うのである。
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<課題MEMO>
●感情の源:「インドネシアでホームステイ中、部屋に虫が大量発生」
●伝えたい感情:「恐怖」「驚嘆」
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