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露悪的な小説と、ノワール小説。

おかしい。なにかがおかしい。
世間の、というか、今さっき読んだばかりの短編小説群が気になる。

何が僕の気にさわっているのだろう?

小説に出てくる人物たちの絶望ぶりというか、投げてしまっている感じがまずある。それはいい。誰にでも絶望はあるんだから。

いや、投げてるというか、人々はわざわざ自分を悪ぶって見せようとしている。とても露悪的に映る。それが僕にはつらい。

小説の中の人々にとっては、普通なことが間抜けに見えて、奇抜でエキセントリックなことを苦も無く吞み込むのが普通で、カッコいいわけで。かつ、それをちょっとは罪悪感とともに傷つきながらこなすのが、器用さだったりする。

都市生活者たちの価値観の乱高下に振り回されて、僕はへとへとだ。

酒をたくさん飲めたり、飯をいっぱい食えるとか、夜遅くまで街をうろうろしてるとか、彼らは器用に街を遊泳しているようで何よりだけども、その上、それを露悪的に見せないといけないとなると、キツイだろ、そりゃあ。

むむむ。僕は何に憤っているのだろう?

いや、そういうキツさを描いている小説なのかも?
なら、いいんだけど。

今ちょっと思い出したのは、千葉雅也がノワール小説について論じているnote。遊びで「虚構の陰謀」を生じさせることで生命力を楽しむメタポジション・・・・・・とかなんとかそういう話。

だから多分、僕がきょう話題にした小説は、露悪的にすることで、かえって生命力がギトギトと照りかえるように構築されてるんだ。
たぶん、そうだ、よね?


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