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言葉の力を思い出す。

『言語化力』という本を読む。

言語化力なんて改まった言い方をしなくても、何かを言葉で表すなんて、もうとっくの昔に習得したスキルだと思っていた。そのはずだった。

だけど本当は、僕はまだまだ習得の途中だったのかもしれない。さらには、間違ったやり方で言語化力を身に付けていたような気さえするのだ。

自分の思考を言葉で規定する、つまり、もやもやした形の無いものに言葉で網を掛け、掬い上げる。言葉はそんな風に使うのだとしたら、言葉の網にひっかかるのは自分自身だ。

言葉で人を動かすことが(ゆくゆくは)出来るようになるにしても、まずは自分を掬い上げてみないことには。

いつでも、これからも、僕が表せるのは、自分の知覚したことだけなのだ。当たり前だけど。

ところで、小説とは、言葉にし尽くせないことをあえて言葉にしようとする苦悩の痕跡だ、とどこかで読んだことがある。解像度が落ちてしまうことを承知のうえで、だけど、そうしないことには表しようがないから言葉にするのだ、と。

僕はそこにある「あえて」を見過ごしていた。そこにある軋轢、摩擦のことを考えていなかった。多分僕は、言葉のことをそれほどまでには信じていなかったのだ。言葉ぬき●●で生きていけていると思っていたのだ。だから当然の成り行きとして、誰かの言葉に接しても、そこから何かを心から汲み取った気持ちになれなかったのだ。

そういうわけで、僕は言葉の力を過小評価していたし、あってもなくてもいいもの、もっと言えば、あるとうっとうしいもの、くらいに捉えていたかもしれない。今までは・・・・・・。

本当は、言葉のことを信じたかった。それが僕の本心だ。

誰も言ったことのないことを、言うには言ってみれる。それって、ものすごい自由だ。そして、言葉はもう、ずっと前からここにあったのだ。

どういうわけで、この改心●●めいた転回が起きたかと言うと、偶然に見たYoutubeのおかげだ。ただよびというYoutube予備校の、宗先生の現代文の講義だ。

宗先生の現代文の読解がものすごく衝撃的だった。言葉のことをこんなに信頼して、大事に扱うんだ、と驚いた。

それから、少し別の方向の発見としては、現代文の問題で、いくつかある選択肢のどれもが正解のように見える時、僕に何が起きていたかがわかった。

僕は言葉の力を軽んじていたにもかかわらず(軽んじていたからこそ、か)、いとも簡単に言葉に攪乱されていた。何と書いてあっても一緒くたに、ぼんやりとしか認知できなかったのだ。つまり、こっちとそっちの差異がわからなかった。

「どれも一緒じゃん?」と言葉を見下してばっかりで、表されていることを少しも掴みにいこうとしていなかったのだ。

僕はこれまで国語は得意だとあぐらをかいていて、大いにサボっていたことが明らかになった。言葉はいつも手元にあったのに、僕はそれをぞんざいに扱い、もったいないことをしてしまった。

だから、宗先生があくまで文字に表されていることのみ●●を手がかりにして、尊重して、読解していくのを見て、僕は深く反省した。

読むって、こんなことだったんですね。で、ひるがえって、自分の見た世界をどう言葉で掬いあげるか・・・・・・という次の問題が待っていることに気づく。

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