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量を書くフリーライティング、その後はまた別のプロセス。
Peter Elbowの本を昨日読んだ。そこで、今朝も10分間のtimed writingをする。
やることが沢山ありすぎで、沢山あるように思えてしまって、圧倒される。
小説のためのフリーライティングを書き溜めておくノートと、こういう朝のmorning pages的な書き物のノートは別にしないといけないのか? とかそういう雑用というか、こまごましたことからまず考えたくなる。千葉雅也が「まずガワから入る質」だと言っているように。
「とにかく、小説がらみで」。というくらいにザっとした網を自分に掛けるようにして、ならば、別のノート、これじゃないノートに書いていくとする。それプラス、今までTateditoに書き溜めていたものと、あとはWorkFlowyに書き溜めてたやつを集約させてみる。
どうやって? とりあえずは、昨日、ざっとプリントアウトした。まだどこかに散らばっているかもしれない。物理的に紙に印字されたものを眺めるのはちょっといい感じ。←脱線という。
注意しなくてはならないのは、自分のための覚え書き的なメモの方が、量的には圧倒的に多くて、それを小説の地の文というか、ともかく原稿レベルに加えてしまうのはやめた方がいいと、自分でも思う。
確かに見かけ上の量は増えるのでうれしくなるけども、それを今度はまた抽象⇆具体で行き来させるというか、「つまり、どういうこと?」とか、「誰のどういうアクションのこと?」とか考えるのは、頭がキリキリするから。
ほんとはそういうことを素にしてストーリーが膨らむ可能性を留保しておくべきなのかもしれないけど。また僕は、こわいことから逃げようとしている気配がするけど、まあいい、次へ行く。
で、いろいろ書いていく段階をGROWINGと呼ぶらしい。その次のプロセスはCOOKINGと呼ぶ。Elbowによると。たぶん、面白いのはCOOKINGのところだ。
で、それはいいとして、いつまでGROWINGを続けるのか、目途は自分でつけれるのか? ということだ。自分で締め切り、区切りを設けていいのだろうか? そりゃ、原理的には自分のすきなようにやればいいわけだけど。
それとも何か別の、他者の指示みたいなのが霊感のように降りて来て、「きみはもう、十分に書いた。次の段階へ進みなさい」と僕にささやくのだろうか? それはそれで、自分的には納得して、終わったことが自然にわかりました、とか後になると振り返ることができるものなんだろうか? 誰かに導かれるようにして書いていました、とかって、後でインタビューに答える時に僕はそう言う。←幻視
霊感というか、ミューズに導かれて、いわば完全に受動的に、まるで自動書記のように書きたいという夢というか、欲が僕には昔からあることを、今更ながらに思い出している。
頭を少しも働かせることなく書く。全き使用される者になって、ひらすら手を動かすマシンになる。どうしてこのイメージが僕を魅了するのだろう? 僕は、神託を受け取る巫者という仕事に憧れているところがあって、その影響だ。だって、というのも違うかもだけど、Elizabeth Gilbertも、Big Magicでミューズに書かされると言っているじゃない?
僕も、ミューズの下僕になってみたい。
・・・・・・というところまでで、10分を大きく超え、19分。
はらへった。