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池松くんの喋り方の間合いがいいね。
平野啓一郎の『本心』、読了。
まず映画を水曜日に観に行き、それから原作をずっと読んだ。
自分は主人公の朔也のようにはなれず、そのことが僕に嫉妬心を湧きあがらせている。
朔也のように、順序だてて、一つずつ考えを巡らせていくことができない。社会的な義憤を行動に移すこともしていない。
「もう十分」とは決して思わないけれども、社会を変えようともしていない。
朔也のことを、だから、善い人だと妬んでいる。
「俺はもっと屈折してんだよ!」
そう叫びたい気分。・・・・・・子どもか。
とか何とか、やさぐれた気分でいるところへ、ブランドン・ホブソンの『カエルたちの襲来』を読む。
毒々しさが染み渡る。甘美だ・・・・・・。柴田元幸の訳が、優しく毒気を滴らせている。
優しいということで言えば、平野啓一郎の文章も、優しい。誰をも取りこぼさないように光を当てるような捌き方だ。うまい。
なんだけど、どっか僕にとっての盲点というか、彼の作品で見えていないところがあるような気がしてならない。ぽっかりと、あまりにもありありと開いた空白がある。
それが、僕を居心地悪くさせるし、軽い中毒にも陥らせる。そういう訳で、僕はもう次に読む平野作品、『ある男』を用意してしまっている。
いや~、小説って、ほんと不可思議なメディアですよね。
ところで、劇中で池松くん演じる朔也が「もう一度」を意味するジェスチャーをする場面があったんですよ。一度はレストランで、ワインを選ぶ時。二度目は、レストランでピアノを弾いているピアニストにリクエストをする時。どちらも、直接声に出して言えない状況のため、朔也は相手に手振りで伝えるんです。あの手つきは朔也が自分で思いついたのでしょうか? それとも、何かのルールに則ったものなのでしょうか? 不思議に美しい身振りだったので、印象に残っています。