digitalnature (vt.) という他動詞。
ローソンにMUJIの文具がけっこう揃っている。僕としてはこれで全然OKだ。A5のダブルリングノートを買った。「裏うつりしにくい」と謳ってあるが、LAMYの万年筆だとバリバリに裏うつりしたので、あきらめてジェットストリームで書くことにした。
7:00am. マックでカフェラテのMサイズで粘ることにする。朝マックのセットには今日はしない。あんまり腹が減ってないし、食べながらだとキーボードが汚れるのが嫌なのだ。
ジェットストリームは書き味は最高なんだけども、デザインがあまり好みではない。ただ、ほぼ日のおまけの3色ペンは軸がカーキ色でシックだ。考えてみると、僕は軸の太い筆記具が好きなのかもしれない。
それはいいとして、新しいノートを創作ノートにする。
何かを新しくすることで、それ経由で得られる世界の手触りを変化させてみる。筆記具もそうだけど、カメラのレンズを替えると、世界の見え方が変わるというようなことを落合陽一が言っている。
考えてみると、僕らは道具を、自己の「出先機関」、もしくは「拡張されたプラグスーツ」のようにして用いている。だからその末端を取り替えることで、それによって得られる世界の手触りが新しくなるというわけだ。
当たり前といえば当たり前だけど。「世界の手触り」てのは、意識していないと感じることができない。僕の場合はそうだ。
車を運転していて目に入る風景。それは視覚情報が主だが、意識していないとすぐに手触りゼロの、のっぺりと平坦な場所になってしまう。そうなると、何か息苦しいというか、徒労感が増すというか、よくない。
手っ取り早い回復方法として、視覚以外の情報に意識を向けてみる。
音。タイヤが道路を駆っている感じ。歩行者用信号が青になるのを待っている小学生たちの声。雨の夜だと、車のテールランプが滲む感じとか、建物のサインが滲む感じとか。
で、話を戻すと、新しく買った150円のノートが、それまでとは微かに違った方法で僕を刺激する。そしてそれを僕は感知する。
で、ノートの最初の方は、落合陽一の『半歩先を読む思考法』からのメモとなった。よく知られているように、落合は「デジタルネイチャー」という概念を提唱していて、僕はその名も『デジタルネイチャー』という本も読んだのだが、今一つ腹落ちしていなかったので、彼のnoteをまとめた本である『半歩先』をじっくり読んだ。
マックで一時間半ねばって読み終えた。
僕の理解では、デジタルネイチャーは、digitalnature (vt.) という風に、他動詞的にとらえるといいような気がした。あくまで僕の理解なんだけど。
Ochiai digitalnatures something. とか。
落合陽一はなにものかを〈デジタルネイチャー視〉している。
デジタルネイチャーという関数。デジタルネイチャーという網をかける。とか。
僕のふだんの生活圏のなかで、〈デジタルネイチャー視〉がうまく働くかどうかやってみる。
僕の座っているテーブルから二つ離れた席に、男性二人が座っている。ちらっと見ると、黒っぽい服の30くらいの男と、緑色のTシャツにジーンズ、黒縁めがねで髭面の男というペア。髭面の方が先輩に敬語を使ってるから、後輩なんだろうけど、年齢不詳。
後輩が「俺、昔ピアノ習ってたんですよ」と切り出す。
「へえ」
「ほらこれ」
わかんないけど、写真を見せてるのかな。先輩はスマホをのぞきこむ。
習ったけどあんま上手くならなくて的なことを後輩が言って、それでその話は終わった。
この1分の景色にデジタルネイチャー的要素はあるだろうか? いろんなイメージがダブついているのはいいね。ただ、計算機要素がない。スマホがあるくらい。それでいいのかな? スマホにアーカイヴされた後輩くんのピアノの写真、もしくは発表会の写真? が過去から駆け戻ってきて(もしくは追いかけてきて)、先輩くんを攪乱させる。
つうか、ピアノの写真、すぐ出てきてすげえな。
ハハハ。勝手なこと言ってんな~、オレ。
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