
夏目漱石と能。村上春樹とメタファー。
能楽師の安田登さんが、「夏目漱石と能」という記事の中で次のようにおっしゃっています。
能の仕草の「型」ひとつひとつには、象徴的な意味はないのだ、と。能の動きは抽象で、状況によって同じ動作からでも違う意味が立ち現れるのだと。
象徴ではないんだ!
象徴/ メタファーと、抽象は別の物だという考えは衝撃的だ!
夏目漱石の『夢十夜』の第三夜で、歩いては立ち止まる、という仕草が「型」のようにして、三度、用いられている。その仕草が差し挟まれるたびに場面が転換する。三回ごとに違う意味を担っている。
となると、抽象の方が象徴よりも高次のようですね。
思い返せば、僕はいつもおもしろいメタファーを歓迎していた。「太った郵便局員」、「冷蔵庫でひんやりと冷えているきゅうり」「厚さ二十センチの凍った月」。村上春樹世界の星座をたどるのは楽しい。
これはあれで、それはなにで・・・・・・とリンクを貼り続ける。楽しいけども、次第に混沌としてくる。
象徴が意味ありげなのに対し、抽象はさっぱりしている。あっけらかんとして、シンプルだ。時にそっけない。わかろうとしても、わからない。ごろんと、ただ静かに配置されている。
ともかく、高次だということの純粋さが、ぽん、とそこにある。
まだ能をライブで観たことがないのだけど、たぶん、そのごろんとした純粋な抽象は、鬼気迫るものがあると思う。
安田登氏のこの本がとても濃厚だった。
*安田登「夏目漱石と能」(「漱石山房記念館だより」第三号)を参考にしました。