形のないコトを質量化する。偏愛と憧憬と反芻。
↑ と、落合陽一感が満載のタイトルをつけてみたけども、これは僕の今日の気分をまとめたステートメント。
というようなことを落合陽一が書いている。
たしかにそうだ。徒労はつらい。知的生産だと思えた瞬間に、救われている。
それから落合はこうも言っている。
うむ。やばい。
しかしそれにしても、落合さんの熱量はすごい。常に新しいことを考えている、といっても、今とちょっとズレた半歩先にダブる今の延長ということらしい。
半歩先にズレてブレてる未来。いい言い方だな。
自分がちょっと拡張されて膨張した気分になる。風やらなんやら、風情がそこを通過していく気がする。
知り合いの老人、瀬ノ尾氏がマンゴーをくれるという。瀬ノ尾さんが果物をくれるのは、彼がコストコへ行った翌日だ。一人では食べきれないので、ほとんど人にあげてしまう。
で、瀬ノ尾邸のちょっと高台になった庭に座り、外を眺めた。瀬ノ尾さんの敷地にはあちこちに低い椅子がおいてある。猫もうずくまっている。
麦が黄金色に色づいていた。麦秋というのだ。楓やオリーブや秦皮が風にそよいで、平和なことこの上ない。木斛の葉っぱが風で豪快に散り、濃紺のカブリオレの上に降り積む。平和だ。
瀬ノ尾さんはフリーランスの商業デザイナーなんだけど、ありとあらゆる場に身をすべりこませることのできる人物で、身一つ、スマホ一つで仕事をしている。お金のない時は、車のコンソールに集めた500円玉でしのぐのだが、上向いてくると本人も首をかしげるほどのinfluxがあるらしい。
そんな瀬ノ尾氏が僕に「人脈が、だいじよね」と言う。ごくごく当たり前な人生訓に聞こえるが、そうではないらしい。
僕は「脈って、面白い言い方ですよね」と答えとも質問ともつかないことを口にしたのだが、脈というのは、鉱脈、水脈というように、筋をなして連なり続く。
で、その脈には実は意志があり、都市を自由に回遊しているようなイメージを持っている。まるで龍のように。僕は脈という言葉に対して、そんなイメージを持っている。
だから、都市を回遊する龍と懇ろになれた人は、そこから恩恵を汲みだすことができる。たぶん、瀬ノ尾氏は、いろんな脈に愛されている人である。だから、枯れないですむ。
じゃあ、どうやったら脈/ ストリームと接続できるか? それは本人にとっても謎らしい。氏はこんなことも言う。「目の前の仕事をちゃんとしてるだけじゃだめだぜ」と。じゃあ、何が必要なんだろう?
よくわかんないけども、瀬ノ尾氏は質量をもたないものを質量化している。施主のアイデアとか、デザイナーの情念とかを擦り取るように、掠れを確かめるように、繰り返し反芻しつつ質量を与えて建物ができる。作り手の偏愛と憧憬がそこへ込められる。
なんかそういう、本来はかないはずのモノが、一瞬だけ(何十年とかかも)質量化する。美しいし、いずれ壊れるだろうから悲しくなるけど、瀬ノ尾さんの作った店が街でオープンしてメディアに載ったりすると、なんだかそれは魔法のように思えてしまうのだ。
で、僕はその不思議な魔法がかけられた街の一角を憧憬する。
(↑『半歩先を読む思考法』はビジネス書の体裁だけど、中身は落合さんの考ええたことの追体験セットです。
外の表紙を外すと、彼の撮ったデジタルネイチャー感の滴る写真が現れます。初版だと同じ写真をあしらったポストカードも同封されています。僕も手に入れました。
「胡蝶の夢」由来の蝶が儚く飛んでいます。うめぇよな~!)