ラヴクラフトと「個人的深淵」とハレの日。
——地球がまだ出来たばかりの頃、どこかからやってきた意識体があって、それは今も地球のどこかに住んでいて、人間たちを〈洗脳〉している。人間たちが見る夢を通して。
僕は今日、ラヴクラフトの「クトゥルーの呼び声」を読んでいる。『インスマスの影』所収、新潮文庫、南條竹則の訳。書いてあることがモダンだ。
メルヴィルの『白鯨』の気配がかすかにある。混血の船員とか、奇妙な偶像崇拝とか。
船。残された手記、あまりにも巨大なクリーチャー。頼もしい権威のある調査団。新聞記事。
僕の限られた物語体験から「シン・ゴジラ」的な印象が浮かび上がる。繰り返すけども、100年近く前に書かれた話だとは思えない。
とか何とか、いろいろ断片的に印象が浮かんでくるのだが、そもそも僕らはなぜ、こういう邪悪で悪臭のする、気味の悪いモノが出てくる話を読むのだろう?
もちろん、読まない人もいる。だが、村上春樹はラヴクラフトを読んでいる。
国書刊行会の『定本ラヴクラフト全集』への村上春樹の推薦文だ。
「全く別の個人的深淵」というのはどういう場所だろう? もしかして、僕らがよく知っている、あの村上春樹の小説世界、井戸や地下通路や石室や、使われていない図書館の部屋のような昏い場所のことだろうか?
もしそうなら、その個人的に見えた深淵は、もはやパブリックドメインになっているような気がする。村上春樹の世界的な活躍のおかげで。
パブリックな深淵。語義矛盾だ。
で、僕は余裕こいてラヴクラフトを読むわけですが、そこに出てくる変幻自在の神格たちが、今もどこかにいるという記述を楽しみにしてページを繰っている。僕の平凡な日常生活をハレの日にしてくれるような、ぶっ飛んだ怪物を望む。
化け物たちは絶滅してしまいました、では寂しいし、できることなら、僕じしんもこれら神格たちに出会ってみたいと思うのだ。あ~、それが個人的深淵をのぞきこむってことか。