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フリー・ライティングという荒波へ乗り出す。
ピーター・エルボウは、書いているうちに、いや、書き終えたときにようやく書きたかったことが現れると言う。
何ということだ! ならば、今、僕が言いたいことが皆目わからないのも、むべなるかな、だ。
書いてしまってからようやく、自分の書きたかったのはこんなことだったのか、と悟る。というか、わかる。
何ということだ!
今、たしかに僕は何となく動きたがっているキャラクターを数人、感じているが、彼らは今のところ、単に何となくウロウロし、それらしく、何となくこうかな? と期待に応えるようにして、おずおずと喋っているだけだ(僕の草稿の中で)。
それは誰の期待に応えてるのか、全くわからないんだけども。
あるいは、例えば、村上春樹の小説が好きだという女がいて、彼女が読みたがりそうな村上春樹小説の亜種のようなものを書こうとしているのかもしれない。そういう女の期待に応えようとして。
そんな女はどこにもいないのだけど。
しかし同時に、そういう女が期待しているのは、こういうことじゃないか? と薄々気づくような中味も、あるにはある。
結局のところ、女たちは、うまいものを食べ、男には丁寧に扱われ、尊重され、時には渇望を存分に満たされ、かといって「きみは随分とガツガツしてたね?」などと突っ込まれることもなく、あくまで後腐れなくサッともろもろを済ますことができ、おなかは一杯で・・・・・・。
要は、食欲と性欲が十分に満たされ、かつ個々人は丁寧に扱ってもらえる。そういう自分が可能となる世界。そういう幻想を与えるのが、村上春樹的小説のすごいところだ。
そりゃ、誰だってそういう世界を夢想する。すらりとした、飾り気のない女性が切り盛りするコーヒーショップで温かいブルーベリー・マフィンを齧りたいし、女性であれば、下品な突っ込みを差し挟まない、躾のいい美しい男が受付をしていてくれれば、そのコミュニティへは日参する。
そりゃそうだ。で、僕は何を書こうとしていたのだっけ?
そう、10分間(もっと長くてもいいんだけど)のフリー・ライティング。timed writinigと言ったりもする。そういう行き先のわからない書き方へ乗り出そうとしている。そういう話。