コロナ禍のMiddle School(初期編)
カリフォルニア州の公立学校では、4月から本格的に対面方式がハイブリッドで開始されようとしている。もちろん、地域によって学年によって既に開始されているところもあり、状況は一様ではない。
昨年(2020年)3月、学校・キャンパス閉鎖は早かった。それはもう小中高大一斉で、待ったなし。荷物を取りに来るのも禁じられ起こった。そして民間の塾や習い事といった対面ごとの全てで起こった。
オンラインへの切り替えが速攻で開始されたが、もともとMiddle Schoolでは、日本で大学生になってようやく付与されるような、学校による個人の「ポータルサイト」を、既に持っており、日々の宿題や提出もそこを介してなされる状況だった。親への連絡も然りである。教育委員会から、学校からの連絡は基本メールやテキストである。その点で、オンライン切り替えのハードルは、日本からすればぐっと低かったと思う。
PCやwi-fi環境のない子どもたちには、それらの貸与が行われた。「本来であれば全員にすべきであるが、今は必要ある子に限定させてもらいます」という説明だった。
当然、学校側も教員のオンライン対応準備なしに開講することはなく、しっかりと準備をする研修期間も設けられていた。校長からは、「オンラインでの教育のベストを尽くすので、準備の間待っててください」というメッセージがあり、その期間はひたすら宿題だった。
また果敢にも、その期間から同時双方向に取り組む先生もいたが、トラブル続きで授業にほとんどならなかった様子だった。突然先生がいなくなったりして子どもたちは楽しそうだったが、やはり準備は重要である。そして、その後も研修は定期的に設けられ、先生たちが駆使する、あらゆるコンテンツの充実度に舌を巻くばかりだった。
何より、日本だったら「お役所指定」または「推奨」のプログラムに限られるであろうものを、先生たちは、本当にあらゆる素晴らしい教育コンテンツを利用していたと思う。私自身、子どものやっていることからとても勉強になった。
体育はどうやっていたのか?
実際、こちらの日本の親御さんたちも、「体育どうするの?」という話はよく出ていた。
だが、そもそも体育教育の概念が、日本とは違う。日本の体育は、体を動かすことによって、運動の楽しさや運動による多様な人との協力を知り、健康やウェルビーングに資するような「体育教育」ではない。どれだけ競技の知識や技術を身につけたのかが問われる。つまり「生涯スポーツ」ではなく、「競技スポーツ」が基本であり、「運動神経がどれだけいいか大会」の科目である。
少々脱線するが、なぜに、全ての子どもが学ぶべき体育が「競技スポーツ」なのか(それは戦時中の兵式体操含め、そういう発想の延長なのだが・・)。無理に競争にさらされ、「運動苦手」「運動嫌い」となった人たちがどれほどいるであろう。スポーツを楽しむことから遠ざけられることは、生涯の健康にも影響する。体育教育の本来の目的を見失ってないだろうか?
また、運動ができる子どもの活躍場所、などと言うが、運動ができる子からすれば、満足のいく「競技スポーツ」をする場でやれれば楽しいのではないか。それに、「活躍場所」などと言う人たちは、本当にそれ以外の「子ども全員のそれぞれの活躍場所」を真剣に考えているとも思えない。ふりかえると運動ができる子でも、「競技スポーツ」に関心なく、引っ張り出されることが苦痛だった子もいたように思う。
話を戻すと、カリフォルニアの学校の体育の基本は、「体を動かして健康になること」である。小学校は、面白いゲームをするし、適当なダンスをするし。ということで、コロナ禍の体育の基本は、ズバリ。その場でエクササイズである。これまた民間の、筋トレコンテンツなどを利用したり、ヨガもやっていた。自分でヨガメニューを考える宿題も出ていた。
音楽が流れて、「はあはあ」という息遣いが聞こえ、たまに子どもは「体育で筋肉痛」などと言っていた。ただ、そりゃあさすがに、実際に体育に比べれば、それも飽きてくることだろうし、自宅の限界は多々あるが、そんな感じである。
宿題は、基本googleformsで宿題提出をしている。あとは書いたものの写メ提出だ。ノートを活用する科目もあるが、総じて「ペンで文字を書く」という機会が減っているのは事実である。しかし、それは私たち大人ももはやそういう世界である。もちろん「ペンで文字を書く」ことの脳への貢献や情緒性は大切にしたいが、「それでもなんとかなるのかもなあ」という思いである。
このように進められてきたコロナ禍のMiddle Schoolだった。