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「こう言った」と「かく語りき」 言葉の齢について

 ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』というのは、文学作品の邦訳において、最高に痺れる部類だよね。などと、思って、その感動を委ねた荒波の動きを表現した踊りなどしてみたりもするのだが、『ツァラトゥストラはこう言った』という訳もあるらしい。というか、現代文の教科書における表記を見ても、こっちが主流らしい。まあ皆は、だから何だと思うだろう。このnoteを読むことを放棄しようと思うだろう。しかし、私には言いたいことがあるよ。

 『こう言った』というのは、『かく語りき』と比して、数十倍理解に易い。そりゃそうだ。なぜなら、前者は普段から私達の用いる様式の言語であるのに対して、後者は古語だからである。しかし、『こう言った』というのは、何だか迫力に欠ける。別に題に迫力を持たせる必要など皆無かもしれず、意味も同じであるのだが、前者では、そこまで重要なことが書かれているように見えない。例えば、「ねぎ買ってきて」だとか、「あそこの饅頭うまいよね」といった風な、発現の意義に火急感がない。名作文学というよりは、雑談の内容を著しているように思える。それに、「ツァラトゥストラ」というのも、近所で小学生からは神と仇され、一方保護者からは不審者の代表格と見なされている、そんな職業不明のおっさんのことではないかと感じられる。一方、『かく語りき』というのは、いかにも深淵な、琵琶湖より深い哲学的内容を著していそうである。では、具体的にどんな哲学的話題だい、と言われれば知らんけれども。

 例えば、「猿がこう言った」では、上野動物園の猿山猿か何かが、「一食辺りのバナナの本数を増やしてほしい」みたいなぼやきをしているのが想像できる。しかし、「猿かく語りき」では、比延の山で生を営む、山の主とも呼ばれる長寿の猿が、山頂から見下ろした愚かな人間の性を風刺する、みたいな内容が書かれていると思うだろう。両者の内容は、雲泥の差というやつである。

 まあ、前述のようなことを、不思議だなぁ、蛸は何で賢いの、それはこの前の模試の英文に書いてあったなぁ、などといった感じ考えていたのである。そうして、私なりに、一つの結論にたどり着いた。思い付いた瞬間こそ、これは歴史的な、象徴的に表現すればスーパー・エレクトリック・ウォーリアーズみたいな真理、もしくは最早インターナショナル・イデア、石川県知事に推薦合格するのではなかろうか、などと支離滅裂な感にうたれた。しかし、今思えば、教室の隅で掃かれ損ねた埃と塵に混じって当然のような発想であった。

 「こう言った」と「かく語りき」の言葉における重量感の差異は、発音にこそあると思うのだ。実際、今貴方が何処にいるか知らんが、声に出してみてほしい。電車だろうと病院だろうと、Say!

 どうだろうか、お分かりいただけただろうか。つまり、口の動きの問題なのだ。まず、「かく語りき」というのは、東西南北全方位に口を拡げて発音せねばならない。つまり、1音1音を丁寧に、口腔をダンスさせねばならない。一方、「こう言った」の「こう」は普段、「コー」と発音しないだろうか。これではTRFの話をしているのと区別がつかない。

 まあ、ここまで読んで下すった、退屈を極め、蹴鞠も飽きてきた頃合い故にnoteを読んでいるような貴人達はお分かりでしょうが、全て偏見である。前述のように、「こう言った」も「かく語りき」も表すところの意味は同じであって、むしろ作品の普及等を考慮すれば、私が「かく語りき」に執着するのは老害の言のようである。これでは私、高校生なのに発想が老害という、キメラのような生命体である。

 こんな無駄な内容で、さらには結論に欠ける文章を書くために時間を費やした、という事実がとても悲しく、奇声を発して昼寝をした。そこで、こんな夢をみた、とすれば格好もつくが、普通に寝た後思い付いたことがあるので、以下に記す。

 老人には、非常に腹立たしい者もいることはいるが、経験と知識を豊富に蓄えて精神性を磨いてきたような人は、老いてもなお格好いい。言葉というのも、また生物のように変貌するものである。それは、流行や口語体、文体の変遷を見れば明らかだ。私は老いることを、漆器に見る。所謂、辿ってきた人生の経験値を漆として、その色を深めていくのである。古き響き良い言葉もまた、同じ性質をもっているようである。長らく蔵に入れていた漆器を取り出してきて、光にあてたときの艶やかな輝き、それと同様の性質である。

 思考の覚え書き。

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