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圧倒的遺族人生なう(妹が15で死んだ話。)【2002-2022】

起:妹の死について

 
私には妹がいる。
正確には妹がいた。
もっと正確には、実妹のような従姉妹がいた。
今年には20歳になる従姉妹がいたはずだった。

2018年に15歳で従姉妹は亡くなった。
原因はSMARCA4という世界では彼女が20症例目の
○○症や○○病と言った名前さえまだ無い謎の病だった。

最後の最後は、髪も全部抜け落ちて顔も歪んで
薬の離脱症状も凄くて、こんなこと言いたく無いけど
別の生き物になってしまったんじゃないかってくらい姿を
変えてしまった。
そこまでして戦った彼女は
骨も溶けていたので、火葬の際は、ほとんど砂のような灰になった。

最期、彼女から意思を伝える事はもう難しくなっていたけど、
それでもわたしのボケや面白い話には目を丸めたり、笑ってくれてるように見えたり、呼吸が少し早くなって繋いでいる呼吸器やさまざまな機械が警告音を鳴らしたりして、反応をしてくれた。
親族、看護師さんと
「あー!そんなに笑かしたら死んじゃうよ〜!」
なんて洒落にならない洒落を命懸けで楽しんだ。
ICUでのそれは不思議な団欒だったし、最期の思い出。

彼女の死は私を構成する大事な1つの要素に成った。
トラウマと言われればそうかもしれないし、美談にしようと思えばなりうるし、
神道の様式で行われた葬式で、宮司さんには「みんなの魂の中に居る」みたいなことを言われたのを覚えている。
あの日から私の中の魂はハーフ&ハーフのようになった。

23年間生きてて、ここでこんなに大きな山が来るなんて思いもしなかった。
親族の中では多分、これからこの“死“‘を背負って生きてく道のりが1番長い可能性があるのが私だ。
2018年7月から私の人生は遺族人生マラソンに、そしてなんとアンカーに選抜されてしまった。

承:死を目の当たりにして、私の身に起こったこと。


“あの子が死んじゃって、私が生きちゃってる意味ってなんなんだろう“

圧倒的若さの死を目の当たりにした私は
死ぬ恐怖よりもむしろ、彼女の死を背負ってこれからを生きてしまう事実が
何よりも怖くなった。

そんな恐怖心から意識を逸らすために就活をした。
「彼女のためにも自分の人生を頑張らなきゃ」なんて前向きな気持ちで行動なんてできなかったし、もう自分のしたいことなんてどうでもよかったので適当に最初に決まった会社に入った。何ならブラック企業で、「忙殺してもらおう」とも願ったりしていた。
“今“と向きあったら確実におかしくなる気がしたからただ遠くを見つめることを徹底して日々をこなしていく。
(こんな状況で、就活に身体が動いたのが本当に謎だったが火事場の馬鹿力みたいな、ジェットコースターで気を失う人のような、危機に晒された時に意志とは関係なく働く謎の力が人間にはあるんだなって思った。)

祖母や祖父がいずれ死ぬ事、親の方が私より先に死ぬだろうこと、
その時の悲しみはなんとなく想像できるので、既に覚悟ができてると言ったら違うかもしれないが、それよりも彼女の死は純粋な不条理だったし、なんかもう
「この先経験する悲しみは大抵これ以下になるんだろう」って思ったら
逆にある意味何も怖くなかった。
「どうせ耳が聞こえなくなったとて、目が見えなくなったって、腕が一本もげたって…」というように自分の持っている健康体が逆に無価値に思えたし、映画や番組で、誰もが涙するような闘病物語も私の目には
「臓器提供ごときで救われるんだったらどんなによかったか、楽勝じゃんそんなの」と感じてしまう。
そんな状態で生きてる自分は、果たして
生きてるのか死んでるのかどっちかと聞かれたら、
どっちでもなかったように思える。
感性と、今という時間を殺しながら、息をしているだけ。
かといって死ぬこともできないし、「生きちゃってるから」明日が勝手に来る。
2018年、私は自分のしたいこと、意志、好きなこと、愛してる事等々、
“生きている“がわからなくなった。

転:“生きてる“実感を取り戻した瞬間

2022年1月、コロナ禍で会うことを控えていた叔母(ひろちゃんと呼んでいる)に2年振りくらいに会った。
従姉妹の母であるひろちゃんは、彼女と暮らした名古屋から大阪に引っ越して新しい地で娘の死を隠しながら暮らしている。
美容院では「娘は東京の学校に行くのに姉の家に居候してて〜…」と話すと言った具合に。
ひけらかしたくない気持ちはわかるし、それも強さだって事は知っている。
街をすれ違う誰もが、もしかしたらそんな悲しみや経験を胸に今日を生きているのかもしれないと思う。

私だってちゃんと自分の口から報告をしたことがあるのは大事な数人の友達だけ。2018年以降からの新しい人間関係の人には、近しくなっても話したことがない。
というのも重すぎるし、「もうあと自分が死ぬ時間が来てくれればいいだけの余生なので話す必要も仲良くなる必要もないのだ。」
当時は本気でそう思っていたし、“今“を生きてないのでたった今できた人間関係やその瞬間に重要性や愛を感じる感性が死んでいたと思う。

ところが今年ひろちゃんに会った時、私は自分の魂が震えるのを感じた。
母、ひろちゃん、私で江ノ島に遊びにいった時のこと。江ノ島は幼い頃従姉妹たちと何度も遊びにいった思い出の場所。
ひろちゃんは、娘を亡くしてから初の江ノ島だ。ずっとずっと来たかったそう。訪れることを1つのケジメのように考えているようだった。

私たちは沢山の思い出話をしながら歩く。
もういない彼女の話をしながら歩くのは、不思議と悲しくなかったというか
むしろ楽しかった。

最後に、夕日と海と私たちは写真を撮る。
ひろちゃんは、彼女の形見のミニオンのマスコットをいつも持ち歩いている。
それをあたかも娘の代わりとして“生きてる“扱いしている訳ではないけれど、
それはいつも従姉妹の名前で呼ばれ、肌身離さずどこへでも一緒に連れていく。

写真を撮ろうと、ミニオンのマスコットと一緒に私たち3人は
インカメラで水平線と夕陽も映るように集合する。
その時私はこれを何年振りかの“大事な瞬間“だとを感じた。
スピリチュアルな話でも、運命とかそんなんでも何でもなくて、
ただ私の大事な従姉妹はもうこの世に居ない事実と、彼女と関わった残された者がそれぞれ日々命を燃やし生きていることを実感した。
写真に映る3人はそれぞれ彼女との続柄や年齢、一緒に過ごした時間、そしてこれからの人生がバラバラだ。
血は繋がっているものの、各々が微妙に違う関係性で彼女の死を背負いながら今をこれからも続けていくんだということ。それでも彼女を想い“今“を3人で過ごした事は変わらず存在したのだ。
離れていても、違う人生でも彼女を介して心が繋がる“今“があることを感じた。
私は自分がかけがえのない“今“を生きていることを思いだした様だった。

結:今、私は遺族を全うする。

3人で写真を撮った時、それ以上のことはなかったけど遺族になってもう
5年も生きていることを痛感した。
それは、本当はずっと待っていたかもしれない瞬間だった。

就活から始まり、私は“今“から目を逸らすための沢山の仕事や習い事といった暇つぶしをしてきた。入社まではバイトもたくさんした。
楽器も習っているし、カメラも買ってみたし、バイクの免許も取ったりしてみた。多趣味とはみんなに言われるけれど、実は2018年以降の私は趣味なんかでこんなことをしてきた訳じゃない。こうでもしなければ私の人生に価値が無くなるから、中身を詰めていなきゃ、年を取っていくだけのただの「遺族」になってしまうから、そうでもしなければ時間と心が保てないから。
そうやって半ば自分の人生を強制的に切り開こうとしていた。

それでも立ち直れなんかしなかったし、その時は楽しくても彼女の死はいつだって側にあって、それどころか目を逸らせば逸らすほど私の「遺族」としての部分はどんどん色濃くなっていった。

でも、あの日の江ノ島での3人の遺族は立ち直れずとも
ただそこに立って、“今“を生きていた。
彼女の母であるひろちゃんも、叔母にあたる私の母もきっと立ち直ってなんかいない。多分一生立ち直らないかもしれない。

でも久しぶりの家族の再会、彼女を想い歩く道は楽しかった。
従姉妹はもうどうにもならないし、集合写真にお化けは映らない。
けど、遺された者も3人集まれば会話や楽しい時間は生み出されていく。
それは私の課した強制的な暇つぶしとは違って
自然で刹那的なもので純粋だった。

これがいわゆる“今“ってやつなんだと、
私は感じた。
この時間の積み重ねが人生で、やがてひろちゃんとも母とも
別れがくる。どう足掻いてもそれが変わらないことはわかっている。
でも、いずれ来る死が“今“を作っていくのかもしれない。
人間の命が永遠だったら、今という概念は存在しない、もしくはこれほど尊いものでなかったんじゃないか。

私はこれからはいっぱい、3人で写真を撮った時の気持ちを味わいたいと思った。
離れて暮らす親族にもできるだけいっぱい会いたい。
家族じゃなくても大好きな人達とも、魂が震える感覚や時間を共有したい。
仲良くなれるならどこまでも仲良くなりたいし、私を、私の中の彼女を知ってほしい。
5年目にして初めて、私は「どうしたい」のか自分の意志がわかった。
私は沢山の人と、“今“を感じることがしたい。
再び自然で刹那的なあの感覚になりたい。それだけ。

そして今、
書かずにはいられない気持ちの今日を迎えた。
命日から5年目、書かずにはいられない今日を生きている。
書こう書こうと温めていた訳でもなく、
恐怖や今から目を逸らすためでもなく、
溢れ出す衝動で、キーボードを叩く。叩かずにはいられない今日だから。
これを書くにあたっては決して「私はこんな悲しいんです」と誰かに慰めて欲しくなった訳でもないし、彼女が5年前のあの日に死んでしまった事実同様、今日が彼女のことについて書きたくてたまらない今日だったという事実だけ。

大丈夫、今ここに私の意志は存在する。
私は今生きている。

私は私を生きる上で、表現する上で間違いなく彼女の存在は絶対的に必要不可欠だし、これから先、生き続ける限りの時間は常にこの事実と一緒に私が存在する。これはもうどんなに背けようとも、私がいつか死ぬことが絶対的に決まってるのと同じこと。
ましてや魂を分けた姉妹なのだから。

だから私はもう目を逸らす事をやめる。
いつか誰かとまた“今生きてるんだ“と実感できる日のために。
あの日の江ノ島での「死を以ってして今を生きる」3人が過ごした時間のように。

きっと書いたことを後悔もするかもしれない。書かずにそのまま6年目、10年目と普通に過ごせばよかったと、その方が良い選択だったとすぐに思うかもしれない。
でも今この瞬間だけは、間違いなく私はやりたいことをやった。
書かねばならなかった訳でなく、書きたかったから書いた
“今“
であったことはこれから先も変わらずに存在してほしい。

“今“を名前に15年生きた、
私のかわいい妹、『菜有』の存在を私は今日1つ形にすることができた。
2つ目の魂“なう“が私の中で存在している。

私の中で二つの魂が今を生きている。

2022.2.22

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