ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳、「新しい古文書学者(『知の考古学』)」について④--トポロジー、あるいは形而上学の密輸?
前書き↓
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※今回の記事は数学用語をかなりラフに使っています。もし数学プロパーの方がいらっしゃったら、ご教示いただけると幸いです。
前回、筆者は「実定性」なる用語について、どこまでも現実でありながら、事後的に理論が発見されることを含んでいると理解した。ドゥルーズは言表の規定を推し進める。
大切なのは、言表の規則性である。さらに、代数学のようなものより、幾何学のようなもの(トポロジー)である。言表は、隣り合う特異性を通過する幾何学のようなものである。実際、この幾何学のようなものの規則が特異性を配分する。つまり、特異性の経済を生産する。
したがって、起源の問題は問われない。だから、独創性の問題も問われない。言表は、特定の誰かに由来しないし、コギトにも主体にも「私」にも「時代精神」にも由来しない。むしろ、言表に対して、さまざまな主体の空間上の場所がある。したがって、言表は累積に特有の対象である。累積にしたがって、言表はさまざまな状態に置かれる。
まとめると、ドゥルーズは幾何学的なものの規則性を重要視したのだ。
ドゥルーズはトポロジーによって、言表にポジティヴな規定を与えようとしている。しかし、筆者には全然分からない。むしろトポロジーによって、ドゥルーズは形而上学を密輸しているように見えるが、大丈夫なのだろうか。