ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳、「新しい古文書学者(『知の考古学』)」について④--トポロジー、あるいは形而上学の密輸?


前書き↓

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※今回の記事は数学用語をかなりラフに使っています。もし数学プロパーの方がいらっしゃったら、ご教示いただけると幸いです。

前回、筆者は「実定性」なる用語について、どこまでも現実でありながら、事後的に理論が発見されることを含んでいると理解した。ドゥルーズは言表の規定を推し進める。

大切なのは、言表の規則性である。さらに、代数学のようなものより、幾何学のようなもの(トポロジー)である。言表は、隣り合う特異性を通過する幾何学のようなものである。実際、この幾何学のようなものの規則が特異性を配分する。つまり、特異性の経済を生産する。

こういった空間そのものの形成と変形は〔…〕トポロジックな問題を提起する。〔…〕重要なのは、言表の規則性である。一つの平均ではなく、一つの曲線が重要なのだ。実際、言表は〔…〕隣りあう特異性を通過する曲線の様相であり、もっと一般的には、特異性が配分され再生産されるような領野の、様々な規則なのである。

ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳、河出文庫、18頁。

したがって、起源の問題は問われない。だから、独創性の問題も問われない。言表は、特定の誰かに由来しないし、コギトにも主体にも「私」にも「時代精神」にも由来しない。むしろ、言表に対して、さまざまな主体の空間上の場所がある。したがって、言表は累積に特有の対象である。累積にしたがって、言表はさまざまな状態に置かれる。

起源の問題はまったく問われないのだから、独創性の問題はなおさら問われない。言表を生み出すために、特定の誰かである必要はないのである。そして言表は、どんなコギトとも、言表を可能にする先験的な主体とも、言表を最初に発する(あるいは再開する)「私」とも、言表を保存し、流通させ、また更新する「時代精神」とも関係がない。一つ一つの言表に対して、実に様々な主体の「場所」が存在する。〔…〕言表とはある累積に特有の対象なのである。この累積にしたがって、言表は保存され、伝達され、反復されるのである。

ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳、河出文庫、18-19頁。

まとめると、ドゥルーズは幾何学的なものの規則性を重要視したのだ。

ドゥルーズはトポロジーによって、言表にポジティヴな規定を与えようとしている。しかし、筆者には全然分からない。むしろトポロジーによって、ドゥルーズは形而上学を密輸しているように見えるが、大丈夫なのだろうか。

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