尋常
コロナ禍により、日常が当たり前ではないということを多くの人が受け入れざるを得なくなった。"新しい生活様式"の名の下、今までとは異なる日常が築かれようとしている。とは言い条、今までの日常は、"今までの日常"として過去の遺物となったのだろうか。
異なる日常が築かれるというのは些か大げさで、今までの日常として築かれたものと現状とを照らし合わせて再構築されていくという方が、より正確な表現だと思う。つまり、今までの日常が過去の遺物として、現在から全く失われたわけではないということである。形を変えて生まれゆくということはしかし、ある意味で今の姿を失ったとも言えよう。そうして生きていくべきとなった。そうして生きていくのが良いということになった。日常とは何なのか、よくよく考えさせられるものである。
トップダウンとかボトムアップとか、そういう次元の話ではない形で社会の日常が変容していく様を髪感できるというのは、とても稀有なことだと思う。不幸中の"幸い"と呼ぶには不謹慎さが窺えるが、このような事態に遭遇することは、生きているうちにそう何度と訪れないだろう。
何度と訪れないだろうこのような機会にもう一度巡り合えるとしたら、社会の常識が変容していく瞬間に立ち会いたいと切に願う。これは『普通念』を読んでいただいた方には理解が早いと思う。いや、例えば「多様性の時代」だの「個性の時代」、はたまたLGBTをはじめとしたセクシャルマイノリティの認知の拡大や女装家タレントの活躍、「男性性(男らしさ)/女性性(女らしさ)」を疑問視する声など、”性”という一点においてもこれだけ多岐に渡って注目されているなど、すでに社会の常識の変容の中に生きているということは自明だ。諸行無常と説かれている通り、変化をしていない瞬間など何ものにおいてもないのであろう。
しかし、このコロナ禍における社会の変容は、例に挙げたような変容とは似て非なるものである。というのも、同じ社会の変容であっても、これらは社会全体か社会の一部分かという社会の幅が大きく異なると髪は感じるからである。また、前者は「そうせざるを得なくなった、そうするのが良いと判断されうる」など、ある種の不可抗力的要素が大きい一方で、後者は”社会の一部の人たち”が存在を示すようになって初めて、”性”の常識に疑問が生じ、変化の一途をたどろうとしている今であると髪は言う。
無論、前後それぞれの変容の在り方に優劣をつけようという話ではない。個髪的願望としては、前者のような社会全体の(常識の)変容を髪感したいのだが。おそらく、髪が望むような内容の常識の変容は、毛が黒いうちは難しいのかもしれない。白くなる前に散り、そんなことなどどうでもよくなる可能性も十分に考えられる。そもそも個髪的願望を抱くことなど不毛なのかもしれない。
しかし、それでも、今は髪の毛が可愛くてたまらないのである。だからこそ髪は今ある社会の常識に疑問を抱き続けているし、抱き続けていくだろう。髪が散ったとしても、きっとこの先も続く人類史において髪が虐げられることのないよう祈り続けると、ここに宣言しよう。
これは挑戦でもなければ宣戦布告でもない。そのような特別なものではない。ただ常識を、常にあるものを、「本当にそうあるべきなのか?そうでなくてはならないのか?」と尋ねているだけである。
結局のところ、普通念に書いたところに通ずるというか、もはや切り口が多少異なる程度で言いたいことは大差ないと感じるが、それだけ髪の実生活において”普通”や”常識”に対し、疑問や、ときには反発などが生じて(しまって)いるのだ。
誰もが、いや、多くの人が「かくあるべき」と判断することが常識である。多くの人が「それが当たり前だろう」と思うことが常識である。らしい。
以前どこかで、「常識とはマジョリティの意見だ」というような話を見聞きした記憶がある。夢の中かもしれない。
常識とは本当に正しいのだろうか。言い換えよう。マジョリティは本当に正しいのだろうか。マイノリティは間違っているのだろうか。非常識は逸脱であるのだろうか。
マジョリティが正しいとして、それはなぜだろうか。マジョリティだから正しいのか、多くの人が正しいというから正しいのか。それは”本当に”正しいと言うに足るのだろうか。
コロナ禍というある種の不可抗力により、社会の日常が変わり始めている。そこに疑問を生じさせる余地はきっとあまりない。
一方、社会の常識が変わり始めるきっかけの一つとして、「誰かが常識を疑問に思うこと」が挙げられると信じたい。その疑問に共感や理解を示した人の数が増えることで、マイノリティからマジョリティへと変わり、常識の変化や新たな常識の形成へとつながると信じたい。
現在、「あるべき姿」や「当たり前」が否応なしに見直されつつあるということは再三申し上げている。極端なことを言ってしまえば「かくあるべき」や「当たり前」というものは、実は存在しないのではないだろうか。社会の日常が、当たり前が、変容していく今だからこそ、というのは余計なお世話かもしれない。
かもしれないが、社会の常識、当たり前となって生活に溶け込んでいるものの姿を尋ねてみてはいかがだろうか。自分のうちにある常識を問うてみること然り、いつも同じ電車に乗るあの人の常識を問うてみることも面白いかもしれない。
尋常。昨今の情勢に対してだけでなく、髪にとってもお似合いな言葉かもしれない。かもしれないが続いたが、きっとそうだと確信する日がそう遠くないうちに来る気がした。
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