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自己紹介

こんにちは。ハッピーロータスです。
人生の後半戦に入り、これからどうやって生きていこうか
模索中。
自分が何を大切にしているのか、どんなことを思って生きているのかを
クリアな言葉にしたくて、色んな思いをここで
綴らせてもらっています。

私の生い立ちを綴ります。
この自己紹介の内容を踏まえて頂くことで、
その他の記事を読まれる際に、内容をイメージして頂きやすく
なるんじゃないかと思います。
よろしくお願い致します。

日本が高度経済成長していた一億総中流時代に
どこにでもありそうな中流家庭で育ちました。
衣食住に困ることもなく、大学院まで出してもらい
現在、カウンセラーとして自立しています。

客観的に見ればとても恵まれた人生だと思います。
が、生まれてからの数十年間、内心は不全感いっぱいで
過ごしてきました。

小学生時代は重い鉛の塊を両足につないで、
ずるずると引きずりながら歩き回っているかのような気分の毎日。
何がしんどいんだか、その頃の私には理由が分かりませんでしたが、
ルールの多い生活を送っていたことが
その要因の一つだったと思います。

母親からの方言の禁止(なまりのある言葉は恰好悪いから
喋ってはいけない。)、マンガ禁止。テレビ視聴は週1時間だけ。
(ザ・ベストテンだけ見せてもらってました。時代が分かりますね(笑))
当時流行っていたファミコンも禁止。(買ってもらえず)
日曜・水曜以外は習い事。土曜日の習い事は2~3個。
ピアノは毎日3時間レッスン。
(ヤ〇ハピアノ教室のグループレッスンに最年少で入れられ、
ついていくのに必死。個人レッスンと、週2回通ってました)
流行歌を歌うの禁止(歌っていいのは教科書に載っている歌だけ。
やけくそで、どんぐりころころ♪を歌ってたっけ)。
泣いて帰宅してはいけない(外で嫌なことがあって泣いても、
泣き終わってから帰るべし)〇〇ちゃんとは遊んじゃだめ。
などなど。

これらは、分かりやすい明確なルールでしたが、
無言の圧力もありました。テストの点が悪いクラスメイトについて
「そんな恥ずかしい点数で、よく外を歩けるね。ママだったら
恥ずかしくて外に出られないわ」「そんなんじゃ、恥ずかしくて
生きてけない」と母はよく言っており、私の家では
「成績悪き者、人にあらず」という空気が流れていました。
気弱で母の言うことを素直に信じていた私は、
「成績が悪いと生きていけないんだ」「人として認められないんだ」と、
怯えていました。事実、成績の良かった私は母から認められ、
それほど成績の良くなかった妹は、母から嫌われていました。

こんな窮屈なルールがある一方で、理想の子ども像・幸せな家庭像を
思い描いていた母は、幼稚園のスモッグやカバン、お弁当袋などに
豪華な刺繍をしてくれたり、母子でおそろいの服を作ってくれたり。
食事もほぼ手作りでした。編み物も上手だったので、
かわいい帽子を編んでくれたり、
夏の家庭科の宿題を手伝ってくれたりもしました。
(私は大嫌いだったんですが)ひらひらレースのついた
ドレッシーな服を着せられ、冬には寒いから風邪をひかないようにと
タートルネック(当時の言い方ではとっくりのセーター(笑))を
着せられて、のぼせてました。

勉強のための文房具は、欲しいと言えば買ってもらえ、図書館にも
定期的に連れていってくれました。読書が大好きだった私は
家族の図書カードを使って一度に数十冊の本を借りてきて
は読んでました。(でも、読書ばかりし過ぎると怒られるので、
カーテンの陰に隠れて読んだりしてました(笑))

母の理想像に沿ったことには、惜しみなくお金や時間、労力を
かけてくれたので、恩恵もたくさん受けました。
私が母と似たような感性の持ち主だったら、けっこう幸せな生活
だったのかな?とも思ったりします。母が子どもを縛るルールを
設けていたのは、意地悪しようとしたわけではありません。
「こんな子に育って欲しい」という思いから過干渉になっていた
のであって、私も「意地悪された」「きつく当たられた」って
感じではなかったんですよね。(とにかく窮屈ではありましたが)

こんな恵まれた生活の反面、重苦しさも感じていた中で、
もう一つ、重苦しい毎日の要因だったのは・・・。
母は片付けが多分苦手で、片付けに関心もなかったようで、
家の中はいわゆる汚部屋でした。
床には雑貨や衣類などなど、様々なものが散乱し、
棚には色々なものが詰め込まれて、何が入っているのかよく分からない。
そんな中で、私は毎日のように「教科書がない」「ノート
どこやったっけ?」と探し物をしていました。
汚部屋であることを、もちろん人には言えません。
友人を家に呼んで遊ぶこともできません。

そんなの、「片付けて」「汚いのは嫌」って言えばいいのに。
って思われるかもしれませんが、母は少しでも批判的なことを言われると
傷ついて泣いてしまうので、子どもながらに、母に逆らったり、
母の思いとは違ったことを言ったりしたりするのはダメなこと。
もし、そんなこと言ったら、母が、家庭が、崩壊してしまう、と感じていたと思います。

そんな生活が高校時代まで続いていましたが、
高校生の私は「この家にいたら、狂ってしまう」「家を出るしかない」と、精神的な限界を感じていました。
県外の大学に進みたいと話すと、母は
「〇〇大学か××大学に行くなら、家を出ていいよ」
と日本で最高峰の大学名を、いともすんなり口にしました。
冗談で言ったのかもしれませんが。

世間知らずの私は、
「じゃあ××大学に受かって、合法的に家を出てやる!」
と反骨精神で勉強し、浪人を経て、無事家を脱出することができました。
(叔母は、母が私を縛っていることに気づいており、
私が家を出ることを精神的に後押ししてくれていたので、
その助けもあって何とか脱出できたと思います)

今でいう「教育虐待」とも違う。これは一体、何だったんだろうか?
と思います。親にはたくさん時間も労力もかけてもらい、
経済的にも面倒をみてもらい、感謝する面は本当に多いです。
その反面、こうした暮らしの中で私の中には歪みが生じており、
その歪みによる生きにくさを、その後の数十年かけて修復してきました。
今でも変なところはいっぱいあります。

渦中にいると、その苦しさはなかなか言葉にならずもがくばかりですが
人生も後半戦となり、これまでの経験をnoteで少しずつ言葉にできたらと
思います。
単なる愚痴にならず、先に希望を持てるような内容にしたいと
思っています。

どうぞよろしくお願い致します。






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