湯けむり夢子はお湯の中 #10 駆け込み風呂・ビリーの湯
山梨のバスツアーもいよいよ最後の行程。ワイナリーで山梨県産ワインを試飲する段になり、実は和真さんもお酒が飲めないということがわかりました。
これまで温泉に行くときは車だったので、運転するからお酒を控えているのだと思い込んでいました。和真さんの方も、私が自分に遠慮してお酒を飲まないのだと思っていたそうです。
というわけで、ワイナリーではアルコール分の入っていないブドウジュースをいただくにとどまったのでした。
♨️
こんにちは、湯川夢子です。ノンアルコールだったにもかかわらず、ほろ酔い気分でバスに揺られております。
帰りの高速道路。窓の外に広がる甲府盆地の街の煌めきが過ぎてゆきます。さようなら、山梨。素敵な思い出をありがとう。
「はっ…」
さっきまでお土産の信玄餅の食べ方をレクチャーしてくれていた和真さんが、いつの間にかスースー寝息を立てて、バスの揺れとともに私の肩にもたれかかってきたではありませんか!
ひえ~!どうしたらよいのでしょう?諸先輩方!緊張で肩から腕がカチコチに固まってしまいます。車窓に映る和真さんの寝顔をチラリと盗み見て、この幸せな光景が本当に自分の身に起こっていることなのか、にわかに信じられませんでした。
もうどうしたらよいかわからず、夢子は狸寝入りするしかなかったのです。
そのうち本当に眠ってしまい、目が覚めたときには、すでに高速道路を下りたあとでした。なんだかもったいない気分です。
隣の和真さんはもっと前から起きていたようで、何やら深刻な面持ちでスマホを操作しておられました。焦って思うように指が動かないのか、打ち損じに苛立っているご様子。
「何かあったんですか?」
「あ、すみません。起こしてしまいましたか…」
「お仕事のトラブルとか?」
「いや、えっと、その…私事なんですが」
いつも穏やかな和真さんがこんなに取り乱しているのを見るのは初めてのことでした。今にもバスを飛び降りそうなソワソワっぷりです。
「あの…夢子さん、申し訳ありません。バスターミナルに着いたら、ぼくはすぐ電車で帰ります。本当は少しお茶してからと思っていたのですが」
バスが降車場で停まると、和真さんは他の乗客に頭を下げながら一番先に降りて、そのまま駅の方へ走ってゆきました。
結局、彼に何が起きたのかもわからぬまま、私は、やけに重たく感じるお土産の紙袋を手に提げて、タクシー乗り場までひとりトボトボと歩いたのでした。
♨️
「おう、久しぶりだな、夢子」
「ああ、拓ちゃん。お懐かしい」
思わず「ただいま」と言いたくなる、ビリーの湯にお邪魔しております。
ここの店主で、ひとつ年上の幼馴染みで、私の初恋の人でもある拓ちゃんの顔を見たら、ここ数ヶ月間の疲労がどっと出ました。
「夢子のおばさんから聴いたぞ。いま、いい感じなんだって?」
「何が?」
「オトコができたんだろ?」
「……お母さんからの情報は、話半分に聞いた方がいいよ」
「なんだ、おばさんの早とちりか。『拓ちゃんがぼやぼやしている間に、夢子はイケメンと日帰り旅行してる。結婚するのも時間の問題よ』って言ってたけど」
うーん、概ね合ってはいるのですが、余計なこと言っちゃってるし、肝心なところは母の希望的観測です。
ビリーの湯で、ドロドロした苦悩を念入りに洗い流し、サウナと水風呂を3ラウンドこなして、やっとスッキリしました。
落ち着きを取り戻した私は、母の雑な報告を訂正するためにも、和真さんとの出会いからバスツアーまでの顛末を拓ちゃんに話すことにしました。
♨️
「じゃあ、バスツアーからは一度も会ってないのか」
「うん。あの様子から、和真さんに何かただ事ではないことが起こっているみたいなんだけど、突っ込んで訊けないし、向こうもそのことには触れないの。
いまは、二日おきに薄味のスープみたいな当たり障りのないメッセージのやりとりをするだけ」
「……なーんか、煮え切らないヤツだなぁ」
「そもそもこれって、つき合ってるともいえない関係なのだろうか?」
「うーん…おまえの歳で、こんなキープみたいな生殺し食らうのもツラかろうに」
拓ちゃんよ。あなたの鈍感さ加減にも、ずいぶん耐性ができた夢子なのだよ。嫁にも行き遅れ、もう恋のはじめ方も忘れてしまうほどに。
「颯太~!ずいぶんのんびりだったねぇ」
すぐ後ろの待合所の椅子から、ひとりの女性が立ち上がり、両腕を広げました。ずいぶん声が大きかったので、思わず振り返ってしまいました。すると、拓ちゃんが男湯の暖簾の下から飛び出してきた子どもに声をかけました。
「よかったなぁ、パパと初めて一緒に来られて」
どうやら常連さんのお子さんのようです。男の子のあとから出てきたお父さんが慌ててその子の手を取り、Tシャツを着せようと頭に被せました。
微笑ましいですね。私にもあのくらいの……いえ、小学生くらいの子どもがいてもおかしくないのだなとぼんやり思いながら、なんとなく眺めておりました。
「ごめんね、だいぶ待った?」
「待ったよ~。洗い髪が芯まで冷えちゃったよ」
「小さな石鹸、カタカタ鳴った?」(かぐや姫『神田川』)
うぷぷ、面白いご夫婦。良いなぁ、こういうやりとりが自然に出てくるなんて。
パパさんが、私と拓ちゃんの視線に気づいてこちらを見ました。いけない、幸せそうな光景につい……
ん?……んん?
お風呂上がりで洗いざらしの髪だったので、パッと見わかりませんでしたが、彼はたしかに私の知っている人。
向こうも私の顔を見て凍りついています。
「和く~ん、アイス食べる?颯太が食べたいって」
かずくん、ですと?
「夢子?知り合いか?」
「ええと、これは幻?ここ、異世界?それとも…」
「夢子さん……」
店内にビリー・ジョエルの『Movin' Out 』が流れるなか、立ち尽くす女ひとり夢子。アイスを買い求める母と子どもの横には、お久しぶりねの和真氏。そして、ビリーの曲にノリながら人類みな兄弟モードの、目の前の彼がまさか件の人とは知るよしもない拓ちゃん。
ちょっと修羅場な5秒前、ビリーの湯フロント前からお届けしております。
~つづく~