湯けむり夢子はお湯の中 #11 恋の迷い子
頭が、痒い。
私としたことが、もう三日もお風呂に入っていません。
こんにちは。恋の迷い子、湯川夢子です。
これまで湯けむり夢子の看板を引っ提げ、湯の道をビバノンノンと突き進んでまいりましたが、もう湯に浸かる気力もありません。
♨️
会社の後輩の神林くんが、心配そうに私の顔を覗き込みます。神妙な面持ちで合掌し、一分ほど肩叩きをしてくれました。
「ダメです。夢子先輩、元気になりません」
経理の春日女史にタッチすると、今度は、手作りクッキーの入った可愛らしい袋を持って、そっと私のデスクに置き囁いてきました。
「夢子が元気になるよう、まじないをかけておいた」
「…ハクさま……」
ジブリ映画のオマージュについ反応してしまう夢子。「おっ、ちょっと元気出た!」と、うれしそうにガッツポーズする春日さん。湧く民衆(社員達)。
「さあさ、休憩時間終了よ!業務に戻りましょう」
ああ、こんなとき、仕事があって本当によかったと思うのです。ただただ目の前の作業に没頭し、外回りで汗をかく。こういう時間が、私をすんでのところで人間界に繋ぎ止めてくれているのだと。
♨️
先日、ビリーの湯で鉢合わせた和真さんと私は、とりあえず軽めの会釈を交わし、お元気でしたか、などとよそよそしい挨拶をするにとどまりました。
拓ちゃんの方へ向き直ると、私はお地蔵さんのように固まったまましばらく動けませんでした。
いつもは鈍感な拓ちゃんですが、さすがに様子がおかしいと気づいたらしく、従業員さんに受付を代わってもらい、隣りの喫茶店にふたりで入ったのでした。
「もしかして、さっきのお客…」
グラスの水で口を湿らせ、チラリとこちらを見る拓ちゃん。私は何でもないふうを装いながら答えました。
「そうそう、あの人が和真さん。まさか偶然会ったのがビリーの湯なんて、驚きました」
「おまえ、大丈夫か?」
「いやぁ、奥さんとお子さんがいたとはね」
「そんな話、まったくしてなかったんだろ?」
「お母さんの話だと、彼は独身ってことだったんだけど、何なんだろう?のっぴきならない事情でもあるのかな」
そういえば、ある日の和真さんのワンボックスカーには、隠すようにチャイルドシートが押し込められていましたね。その事実をものすごく歪曲して解釈し、きっとこの車自体もしかしたら和真さんのものではなく借り物なのかもしれない。なんて考えて、納得しようとしていました。
こんな気持になるくらいなら、好きになる前に訊ねればよかったんですよね。「あなたを好きになっても差し支えありませんでしょうか?」って。
「もう顔を合わせるのは嫌かもしれないけど、ちゃんと和真ってやつと話をした方がいいんじゃないのか?」
「一体何を?別に私たち、おつき合いしているわけでもないし、強いて言うなら温泉愛好家同士ってくらいの関係だもの」
「いや、違うだろ?」
「違わないよ。私が勝手に勘違いして舞い上がっていただけ」
「俺が横にいてやるから、問いただしたいことは飲み込まないで、ちゃんとあの男にぶつけろよ。でないと、心が壊れるぞ」
だんだんと拓ちゃんの声に怒りの色が滲んできたのを感じ、私はハッとしました。もしかしてこれは、怒っていい案件なのだろうか?と。
「おつき合いしましょう」という一種の契約がない限り、恋人として交際していることにはならない。そう、解釈しなくてはと思っていました。でも、私は私なりに彼への好意を表現し、少なからず彼からの好意も感じとっていました。
しかし、接吻はおろか、手すら繋いでもいないプラトニックラブ。裏を返せば、それは大人ゆえの逃げ道確保と、拒絶される怖さを回避したい思いがそうさせたこと。
お互い、足のつく浅瀬でパシャパシャ泳いでいただけなのだと思います。
「ずるくて臆病なのだわ。私も、和真さんも」
「そんなふうに、もやっとさせるな」
拓ちゃんの薫子さんに対するストレートラブアタックと比べたら、そりゃ、もやもやするでしょう。
「とにかく連絡とって話をするんだ。俺の助けが必要なら、いつでも駆けつける」
♨️
どう転んでも地獄な気がする和真さんとの再対面。
決戦は金曜の夜。すなわち明日。拓ちゃんと話した、ビリーの湯すぐ横の喫茶店で会う段取りとなりました。
ああ、逃げ出したいような、本当のところを聞かせてほしいような。そもそも、一体自分はどんな立ち位置にいるのかもよくわからない。もやもや五里霧中の夢子。
とにかく今夜はちゃんと眠らないと。
みなさま、どうか私に元気玉を送ってください。その十パーセントを使って、まずは三日ぶりのお風呂に入ります。
♨️つづく♨️
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