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湯けむり夢子はお湯の中 #14 K氏による伏線回収
「会えない日が続いたとはいえ、ぼくと別れるまでの半年間ほど、彼女にはぼくと今のご主人同時につき合っていた期間があったはずだと、記憶を辿って思いました」
「その……つまり、颯太くんが和真さんの子だと?」
眉間に苦悩の色を浮かばせながら、和真さんはしばらく黙り込んでしまいました。そして、決心したようにひとつ頷くと、
「はい。そう…考えるようになりました」
私の言葉を認めたのです。
♨️
こんばんは、湯川夢子です。風呂もなければゆるりもない。こんなの湯けむり夢子じゃない!
しかも首から上は百恵ちゃんです。白いお花の髪飾りが、この喫茶店の中で非常に浮いている……いえ、ビューティーサロンMの雅史さんと美里さんのご厚意です。ありがたいことです。髪型とメイクの力を借り、かろうじて頭を上げていられていると思うのです。
♨️
私は、ずっと心に引っ掛かっていたことを訊ねようと決心しました。
「あの、もしかして、バスツアーの終わりに和真さんが先に帰られた理由も元カノさんと颯太くんが?」
『お察しのとおりです』
いま目の前に和真さんがいるのに、あの日のポツンと取り残された自分が甦って胸がキュッと締めつけられました。
「本当に申し訳ありませんでした。楽しかった一日を、あんなふうに一方的に締めくくってしまって」
今夜はそのことも全部話します。と言って、彼は呼吸を整えました。
「実はバスツアーの前にも、彼らとは幾度か会うことがありました」
和真さんの車に押し込められていたチャイルドシートがフラッシュバックします。
「颯太くんの父親が単身赴任先に発ってしまってから、あの子は家族が突然ひとり欠けたことで心が不安定になっていたそうです。幼稚園のお友達のお迎えにお父さんが来ているのを目にして、余計に父親を恋しがるようにもなりました。それでお友達とケンカしてしまったり……。
そんな折りにぼくが彼らと出会ったことも何だか暗示的に思えて、二度ほど、彼らと休日出かけました。そして、そのとき彼女に、颯太くんとぼくが生物学的な親子関係にあるかどうか、DNA鑑定をさせてくれないかと申し入れたのです」
「……」
「もちろん断られました。当然ですよね。ひとつの家族を壊しかねない事案ですし、たとえぼくと颯太くんに血縁があったとしても、彼女とご主人との結婚を揺るがすつもりはなかったんです。彼女の方にも、ぼくとよりを戻す気はありませんでした。
ぼくの『知る権利』は身勝手でしかないのだと、少しずつ冷静さを取り戻しました。
夢子さん。あなたとの出会いでぼくは、自分自身の正常な心の置き場を見失わずにいられました。しかし、恋愛感情はないにせよ彼女とも会っていたのですから、正直、後ろめたさもありました」
そう。私と温泉めぐりやバスツアーへ行っていた間、彼らとのことも同時進行していたのですね。
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「バスツアーの日、ぼくはあなたに伝えたいことがありました。いまそれを言うには、ぼくはあまりにもあなたに相応しくありません。
自分でも驚いたのですが、あのとき、彼女からメッセージが入って、ぼくはいてもたってもいられませんでした」
いまでもはっきりと思い出せます。ひどく取り乱した和真さんを。
「あの日の夜、颯太くんは幼稚園のお泊まり会に参加していました。ところが、みんなが寝静まってからほんの一時、先生が目を離した隙に、彼は園を脱け出してしまったのです。すぐに彼女にも連絡がいきましたが、幼稚園から家までの道のりを歩いて探しても、颯太くんは見つかりませんでした。
そして、心当たりのあるぼくのところへ彼女が連絡を寄越したのです。最初は、まるでぼくが誘拐したのでは?とでも言いたげな文面でした。きっぱりと否定し、山梨からの帰りだと告げました。
彼女は気が動転すると危なっかしくなるのを知っていたので、ぼくも一緒に颯太くんを捜すと返しました。とにかく、颯太くんの無事を確認するまでは、ぼくだってどうにかなってしまいそうでしたので。夢子さんには申し訳なかったのですが、それであんな慌ただしい別れ方をしてしまったのです。本当にすみませんでした」
「いえ、事情はわかりました。謝らないでください。それで、颯太くんはどこで見つかったのですか?」
「はい。新幹線の停まる駅の改札口で泣いているところを駅員さんが保護してくれていました。名札や持ち物から調べて、幼稚園に連絡が来たそうです。ぼくは一度車を取りに行っていたので、途中で彼女を拾い、一緒に駅まで颯太くんを迎えに行きました。
あとから聞いたのですが、父親のところへ行こうとしていたようです。見送りで利用した駅をちゃんと覚えていたのも驚きですが、家や幼稚園から大人の足でも30分はかかるというのに……よほど会いたかったのでしょう」
「……」
「自分の幼かった頃に似ているからといって、ぼくの子では?DNA鑑定をさせろだなんて、どうかしていました。そんなこと、はっきりさせたところで誰も幸せにはなりません。
ただ、その出来事以来ふたりのことがどうしても心配で。二週間後の週末だけ赴任先から彼女の夫が一時帰宅するので、それまでは出来るだけ様子を見に行ったり、連絡を取っていたんです。
そして、こないだ。夢子さんとばったり会ったビリーの湯で、最後に彼らと過ごしました。もうこれきり顔は合わせないと決めて」
誠実に洩れなく先日までの顛末を話し終えた彼は、どこかほっとした面持ちでした。
私は、ビリーの湯での仲睦まじい和真さんと彼女のやりとりを思い返していました。あのツーカーな感じ。颯太くんも和真さんにだいぶ懐いていて、最初は本当の親子かと思いましたもの。
♨️
「あの、これで全部ですか?」
「はい。すべてお話ししました。長い時間、聴いていただいて申し訳ありません」
「いえ、時間のことはお気になさらないでください。ただ……」
「?」
「全部お話ししてくださった今だから、それを踏まえて訊きますね」
「はい」
「和真さん。私の気持には気づいていらっしゃったのかな?って」
ハッと目を見開き、彼は慌てて居住まいを正しました。
「あの…とても自惚れているようで、無礼かもしれませんが。ぼくの思い違いでなければ、夢子さんは、その…ぼくに好意を持ってくれていると感じていました」
膝の上に重ねた自分の手の震えをグッと握り締めます。
「それじゃ、あなたの方は、どうだったのですか?」
ああ、ついに言ってしまった。
和真さんの苦しげな様子が、テーブルの向こう側から伝わってきます。教えてほしい。でも聞きたくない。眩暈のしそうな長い瞬間でした。
「もう、ぼくに答える資格はありません。でもバスツアーのとき、はじめは『夢子さんとちゃんと向き合いたい』そうお伝えするつもりでいました。
それが、あんなことが起きて、コントロールできないほど颯太くん達のもとへ駆けつけようとしていた。自分の心に気づいてしまったんです。
ぼくはあなたの大切な時間を、自分を癒すために使ってしまいました。夢子さんといると心地好くて、まるで温泉に浸かっているようにほっとして……。こんなこと許されませんよね。あなたのぼくへの想いと優しさに甘えていたなんて」
わかりません。たぶんそういうことなのでしょうけれど、わかりません。こんなに弱っている人を、私は怒れない。でも……。
「だあぁ~!もう!いい加減にしろよ、アンタ!」
突然、私のすぐ後ろから聞き慣れた声がしました。振り向くと、背中合わせに座っていた後ろのテーブルのお客さんが、ガタンと椅子から立ち上がったではありませんか。
テーブルの上には空のグラタン皿。見上げると、そこにいたのは、
「拓ちゃん?!」
ビリーの湯店主にして私のひとつ年上の幼馴染み、拓ちゃんが、鬼の形相で和真さんを見下ろしていたのでした。