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井戸に焦りはこだまする。

この半年間、ずっとあることについて、そう感じている。去年の今頃は、こんな世界が待ってるとは思わずに過ごしていた。年が明けたら、渦巻くものに世界は覆われて。そんな中でも日常は続いてゆき、同時進行で誰もが命のからくりを続けている。

ときどき、深い息を吐いて、その音に耳を澄ます。それから、ゆっくりと息を吸い込んで、大丈夫、まだ体の芯まで空気が行き来してるなと確認する。何かに囚われすぎているときは、空振りだよ…と身体はサインをくれる。そう、しばらくぶりに動く井戸から水を汲み上げるとき、ポンプを何度もカシャカシャしながら手応えを待ってるときの、あの感じ。カシャカシャ、カシャカシャ、マダデスカ?呼吸もカシャカシャ、浅くなる。

ならば!と呼び水をしながら続けていたら、手のひらにトン!と重みが伝わって、やがて水が出口にやってくる。そのはずなのに。それを待っているのに、一向に気配はおとずれない。

ある事を考えるとき、どうにもそこから抜け出せない。どうしたらいいのかな?どうすれば届くかな。この呼び水、この人の井戸の底まで落ちてないのかな?もしかして、逆に邪魔してるのかな?だったら、どうすりゃ出てくるのかな?水はちゃんとある、それはわかってる。そして、汲み手が要るから助けて下さい!とSOSがあったから、わたしはここで、カシャカシャやってるはずなのだ。どうしても出さないと、井戸は取り壊されてしまう。

押してダメなら引いてみろ。アメがダメならムチためせ。出ようが出まいが種を蒔け。思いつく限りのことを、私は呼び水のつもりでしているのだけれど、それがよいやらわるいやら。

相手が「もう取り壊していただいて結構です」と望んでいるなら、私は静かにその行程に立ち会うだろう。ちゃんと浄めて、一所懸命そこで役割を果たそうとしてくれたことに感謝をして、必死に汲みあがろうとしたことを労って。ここを閉じても、あなたは水。地下を辿って、またどこへでも流れてゆける。そう言葉をかけて、流れゆくのを見送ろう。だけど、あなたはココで湧く水となり、井戸としてありたい!!と強く強く望んでいる模様。

ならば、カシャカシャやるしかないのだ。だから、その作業を厭っているのではない。出来ることがあるのは、まだ幸運、序の口。可能性が残っているのだから。なのに、ときどき呼吸に耳を澄ましてしまうのは、私が相手に「私の思うように変わってほしい」と願っているからだ。

そうじゃないやろ?と、私が問う。そうなんだよね、と私は答える。相手が口に出している希望が叶えばよい、それは本気でそう願う。だけど、その過程や形に「私」を投影しかねない、そのギリギリのところを踏み越えてはいけないよと。だから私の身体はサインをくれる。呼吸してみなよ?

たとえ自分が変わっても、対峙する相手もそれに呼応するとは限らない。それを期待しすぎると、次の感情が生まれてしまう。だからこそ、呼応して響きあえたとき、それはとてつもない幸せや充足感を届けてくれる。人生は凸と凹。いつしか「欠けないものが至高」みたいな魔法にかかっているけれど、ほんとは凸凹組み合わせて、ようやく□になれるんじゃないの?いつもバチッと、□く仕上がるワケじゃないけれど、繰り返し、くりかえし。□になったり、角がとれたら○くなったりパチパチ光って☆になったり。

それをみたいと願うこと。それは私にとって、生きてる醍醐味の1つではある。だけど、そのために他を思うように導こうとする力も、生きてる私の中にある。

気をつけて、気をつけて。心を配るのだ、他ならぬ、まずは私自身の気配に。

そう整えたら、ポンプは少し、重くなった。よく聴いて。お互いの呼吸。お互いの気配。少し手を止めて、ここに腰かけて、足をブラブラさせて、空でも眺めて座っているから、今度はそこから、声かけて。おーい、そろそろ頼みますー!

そしたら、わたしは、わかりました!とまた手をかけて、ゆっくりゆっくり、ポンプをおろそう。それでダメなら、釣瓶にしようよ?そんな言葉が胸によぎっても、何はともあれ、おいておく。互いの呼吸を、聞き逃さないように。





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