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[エッセイ]イタリア滞在記AT_4【2022年1月26日(水)】

僕は今日、「鮭炒飯が食べたい」というアンドレアのリクエストに応えて昼飯を作った。つまり、良いことをしたのだ。これは僕の性分なのだが、善行と悪事の釣り合いが取れていないとどうも気持ちが悪い。ひとつ良いことをしたらひとつ悪いことをしないと!...というわけで早速、知り合いの中で唯一僕より年下の、一番古い友人、ルーカに電話をかけた。
「今ひま?」
「うん、今日は仕事がないからずっと家にいるつもりなんだ」
「そうか。なぁビデオ通話しない?面白いもの見せてやる」
「...面白いもの?何だろう、君が言う『面白い』って、ちょっと怖い気もするけど...じゃぁ一回電話切るね。WhatsAppで俺からかけなおすよ」
「あー待って。準備あるから、数分後にこっちからかけなおす」
僕はそう告げて電話を切り、スマホをベッドサイドテーブルの上に置くと、静かに寝室を出て、足音を立てないようにバスルームへ向かった。洗面台の蛇口をひねって冷水を出し、感覚がなくなるまで右手を冷やす。そしてキッチンへ移動し、冷凍庫を開け、ジェラートを持ち帰りで購入したときについてきた小さな保冷剤を3、4個右手でつかんで自室に戻った。ベッドサイドテーブルの上のパルスオキシメーターを右人差し指に挟み、電源を入れる。寸刻待つと、文字盤に「92%」と表示された。

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ネットで見た通りだ。指が冷えていると正常範囲以下の値が出る。思わず口角が上がるのを感じながら、僕は指にはめたままのパルスオキシメーターを写真に収め右手で保冷剤を握りなおすと、反対の手でパーカーのポケットから二台目のスマホを取り出し、ルーカをビデオ通話で呼び出した。
ベッドルーム隅の背の低い本棚の上にスマホを立てかけて置き、
「ベッドの上、見えるか?」と、彼に確認する。
「うん。真ん中のあたりはよく見える。端っこは見切れてるけど」
「それで大丈夫。僕、今からアンドレアに電話をかけるから。あいつ、多分...っていうか確実にこの部屋に入ってくると思うけど、何があってもお前は絶対に声を出すな。いいな?」
「...いったい何をするつもりなの?大丈夫なんだろうね?」
「大丈夫だよ。それより絶対しゃべるなよな。わかったか?」
「うん...」
画面の中のルーカがうなずくのを見ると、僕はベッドサイドテーブルの上に置いてあったメインのスマホを左手に取り、わざと強く咳き込んだ。気管支のあたりに鈍い雑音が響く。
「おい、ちょっと...」と、口を開くルーカを、唇に人差し指を当てながら睨みつけ、咳き込み続ける。少し息が上がってきたところでベッドの中央に枕を抱えて座り、スマホを操作してアンドレアに電話をかけた。
一回目のコール音の後、
「ローリス?どうかしたのか?」
やつは早口で応答した。
「息が...」
できる限り苦しげにしゃべろうとすると、いい感じにしゃがれた声が出て、思わず顔がにやける。僕はWhatsAppを開いて、さっき撮ったパルスオキシメーターの写真をアンドレアに送信した。
「ローリス?」
「写真、見て...WhatsAppの...息が...苦しい...」
演技せずとも込み上げる笑いをこらえるだけで、発話が途切れ途切れになる。
「写真...?」
アンドレアがそう呟いた数秒後、電話が切れる前にこちらへ向かう彼の足音が聞こえてきた。僕は通話を切り、膝に抱えた枕に顔を押し付け、それこそ本当に窒息するのではないかというくらい声を殺して大爆笑した。やつがドアノブに手をかける気配を感じ、そのままの体勢で再び激しく咳き込み始める。
「ローリス、どうしたんだ?!」
彼は勢いよく扉を開けベッドに駆け寄り、僕の背中に手を当てた。
「酸素飽和度が92%って...」
そう言いながら、慌てた様子でベッドサイドテーブルの上のパルスオキシメーターを手に取る。僕は彼に見つからないよう、右手に握っていた保冷剤をベッド上部に並ぶクッションの下に素早く押し込んだ。彼は、息も絶え絶えに咳き込む僕の右人差し指にパルスオキシメーターを挟み、背中をさすりながら文字盤に数字が表示されるのを待っていたが、やがて、
「88%...?」
と呟き、激しく狼狽した。
「...苦しいか?あぁ...困ったな...さっきまで元気だったのに、何で急に...俺がちゃんと看てなかったせいだ...」
保冷材の効果覿面てきめんだな。こいつの慌てようといったら...ちょっともう笑いを禁じ得ない。声が漏れそうになるたびそれを誤魔化すためより強く咳き込み、泣き出しそうなアンドレアを盗み見ては、ばかじゃねぇのか、とまた吹き出しそうになる。
「とりあえず118救急車...」
少し調子に乗り過ぎて本当に喘鳴ぜんめいが聞こえ始め、やつがそう言いながらスマホを手に取ったとき、
「アンドレア」
突然、第三者の声がベッドルームに響いた。
僕も彼もはっとし、辺りがしんと静まり返る。第三者はその静寂の中で続けた。
「落ち着いて。ローリスは息ができないふりをしているだけなんだ。本当に具合が悪いわけじゃないんだよ」
僕は本棚の上を睨みつけ、
「ルーカ、てめぇ...」思わず声を上げる。
「ごめん。でも、あんまりいい悪戯いたずらじゃないと思うんだ」
ベッドを降りて本棚に歩み寄ろうとすると、アンドレアが僕の後頭部を鷲掴みにし、すごい力で強制的に彼と目が合うように振り向かせた。
「どういうことか説明してもらおうか」