ジル・ドゥルーズ入門

存在の脱構築


ジル・ドゥルーズとは

ジル・ドゥルーズを大まかに説明すると、「固定的な秩序から逃れ、より自由な外部で新たな関係性を広げていくこと、自分の殻を破って飛び出していくこと」を励ますメッセージを発した哲学者だと著者は言います。

ドゥルーズの哲学と言ったとき、ひとつのキーワードを挙げるなら、やはり「差異」という言葉になります。差異という言葉は硬い言葉で、日常的にあまり使わないと思いますが、これを哲学の概念としてはっきり打ち出したのがドゥルーズなのです。

世界は「差異」でできている。

というのがドゥルーズの示した世界観です。

それは、ドゥルーズの主著「差異と反復」にて論じられているのですが、この本は非常に抽象的で複雑な本で、準備なしに体当たりしても殆どわからないそうです。

ポイントとしては、同一性よりも差異のほうが先だ、という考え方を理解することです。大きな二項対立として「同一性/差異」がという対立がありますが、同一性が最初のものではありません。同一性は「二次的」な位置に置かれています。しかしそれは、事物が一瞬たりとも同一性を持たないような、めちゃくちゃな状態を言っているのではなく、二次的にでも、「原理として存在する」のです。具体例を交えて、より想像がつくよう説明してみます。

ヴァーチャルな関係の絡み合い

例えば、「私が自転車に乗る」という事態を考えてみます。
そこには、「私」というひとつの存在と、「自転車」というもうひとつの存在があります。大雑把には、「私が / 自転車に乗る」というかたちで「私」と「自転車」は主語-目的語の関係として、二つの独立してモノとして捉えれられることになります。

しかし、現実の状態を考えてみると、「私」と「自転車」は単なる主語-目的語の関係ではなく、非常に複雑に絡み合っていることが分かります。「私」が乗ることで「自転車」全体をコントロールしているようですが、実際に操作できているのは、ハンドルによる方向性や、ペダルによる力加減など、かなり限定的な部分です。ハンドルによる方向性にしても、元来自転車に備わっているハンドルの機能に依存する部分があり、方向性を完全にコントロールすることはできません。また、自転車のフォルムによって乗る姿勢はかなり決められてしまいます。だが、それでも私が姿勢を自在に操れる部分も残っています。体のバランスは、私と自転車の両者で保つ必要があるし、道の状態などの周囲の環境等も二つの関係性に加わってきます。

と、このように、「私」と「自転車」は独立したものであるというより、ひとつのハイブリッドな、サイボーグ的に一体化したような状態になっていて、そこでは複雑で多方向的な関係性がさまざまにコントロールされ、「自転車に乗る」というプロセスが起こるわけです。

そして、それらのプロセスの細かいところを我々は意識していません。意識のレベルでは、「私が自転車に乗る」という主語 - 目的語の関係でしか捉えることができていないのです。ところが、その中では、複雑な線がいたるところに伸びていて、関係の糸の絡まり合いのようになっている。それが意識下で処理されている。

ドゥルーズは、このようにAとBという同一的なものが並んでいる次元のことを、「アクチュアル」(現働的)と呼びます。それに対して、その背後にあってうごめいている諸々の関係性の次元のことを「ヴァーチャル」(潜在的)と呼びます。

通常我々は、世界を、A,B,C…という独立したものが現働的に存在していると認識しているわけですが、実はありとあらゆる方向に、すべてのものが複雑に絡まり合っているヴァーチャルな次元があって、それこそが世界の本当のあり方なのだ、というのがドゥルーズの世界観になります。

ものの存在を、ある同一性とそれ以外という対立関係から解放し、普遍的な接続可能性と捉えるところが「存在の脱構築」の核心です。ヴァーチャルな次元では、私とあなたは完全に独立した二人ではなく、絡まり合う関係性として存在しているのです。

一見バラバラに存在しているものでも実は背後では見えない糸によって絡み合っている ― という世界観を哲学的に最もはっきり提示したのがドゥルーズだと言えます。ドゥルーズには他にも論点が多数あるが、まずはこうしたイメージで十分だそうです。

準安定状態

一般的に差異というと、Aという一つの同一性が固まったものと、別のBという一つの同一性が固まったもののあいだの差異、つまり「二つの同一性のあいだの差異」を意味することが多いと思いますが、ドゥルーズはそうではなく、そもそもA、Bという同一性よりも手前において様々な方向に多種多様なシーソーが揺れ動いている、とでも言うような、いたるところにバランスの変動がある、という微細で多様なダイナミズムのことを差異とよんでいるのです。世界は無数の多種多様なシーソーのようであると捉えているんですね。

一方、同一的だと思われるものは、永遠不変のひとつの固まりではなく、諸関係の中で一時的にそのかたちをとっている、という捉え方になります。
このことをドゥルーズは「準安定状態」と呼んでいます。(これは科学の用語で、これを応用したジルベール・シモンドンという哲学者であり、ドゥルーズはその議論を参照している)

これは生物で考えてみるとわかりやすいと思います。一人の人間、例えば私自身の同一性といっても、それは開かれたものであって、絶えず体は変化しているし、細菌などの他者によって住まわれており、生命プロセスの様々なバランスによって一定の姿かたちをかろうじて維持しています。そのバランスが保てなくなると、病気になったり、死んでしまったりする。
何より、純粋な「健康」というのはないそうで、身体は常に多少病んでいるし、生と死は混じっているとみるべきだそうです。
大きなスケールをとってみれば、エジプトのピラミッドだっていつかは崩壊するわけですが、地球の重力や気候条件など無数のシーソーゲームの中であのかたちで準安定しているということです。

全てはプロセスの途中である

重要な前提は、世界は時間的であって、すべては運動のただなかにあるということです。リアルにものを考えるというのは、すべては運動の中に、そして変化の中にあると考えることです。
ここでまた、キーワードが出てきます。「生成変化」と「出来事」です。
生成変化は英語ではビカミング(becoming)、フランス語ではドゥヴニール(devenir)で、この動詞は、何かに「なる」という意味です。

ドゥルーズによれば、あらゆる事物は、異なる状態に「なる」途中である。
ということです。事物は、多方向化のプロセスそのものとして存在しているのです。事物は時間的であり、だから変化していくのであり、その意味で一人の人間もエジプトのピラミッドも「出来事」なのです。プロセスは常に途中であり、決定的な始まりも終わりもありません。

と、以上がおおよそのドゥルーズの入門になります。

精神分析批判と多様な実践のススメ

これ以降は、1970年代からドゥルーズと共著を書くようになった精神分析家・政治活動家のフェリックス・ガタリとの活動も含めて説明していきます。二人を合わせてドゥルーズ+ガタリと呼びます。

この二人組は、1972年に「アンチ・オイディプス」という非常に挑発的な精神分析批判の大著を書き、センセーションを巻き起こしました。これは後にまた改めて説明しますが、フランス国内では精神分析の実践が、日本などと違ってかなり強い力を持っていたという背景があったからこそだそうです。

精神分析とは、ごく大雑把に言うと、今の人間関係のトラブルや不安の根源には幼少期の家族関係の問題があるのだという仮説を立て、自由連想で記憶を手繰っていくことで、かつての自分のトラウマに向き合う、そうすると現在の問題が解消されるという実践です。ここでのトラウマは重大なものではなく、すごく広い「何らかの意味での心の引っ掛かり」くらいの意味でとってください。そういった意味でのトラウマを中心に、雪だるま式に心の中の構築物が積み重なることによって、今の自分の心的傾向ができあがっているのだ、と考えるのが精神分析です。

それに対して二人が行った批判は、とても簡単に言えば、人間の振る舞いはそんな小さい頃の家族のことだけで決まってるわけじゃない、ということです。自身をごく狭い範囲=家族における同一性だけで考えるのはリアルじゃない、というのです。

世界は多方向の関係性に開かれていて、しかもそれは変動しているはずであって、精神分析は特定の基準点に向けて、自分自身を固めていくような運動であり、自分をむしろ硬直化させて治ったような気にさせるまやかしの技法だ、ということなんですね。

ドゥルーズ+ガタリの思想は、外から半ば強制的に与えられるモデルに身を預けるのではなく、多様な関係の中でいろんなチャレンジをして自分で順庵手状態を作り出していけ、ということだと言えます。

これは厳しい要求で、難しいことだと著者は言います。
ドゥルーズ+ガタリが考えているのは、ある種の芸術的、準芸術的な実践です。自分自身の中で独自の居場所となるような、自分独自の安定性となる活動を作り出していこう、「本当の自分のあり方」を探求する必要なんてないのだ、だからいろんなことをやろうじゃないか、いろんなことをやっているうちにどうにかなるよ、というわけです。

二人の思想は、このように楽観的で、人を行動へと後押ししてくれる思想なんです。

「すぎない」ことの重要性

その後、ドゥルーズ+ガタリは「千のプラトー」という本を1980年に刊行します。精神分析批判よりも更に先へ進んで、世界全体をより解放的なものとして捉えるための新たな考え方や概念を提示している本です。

その最初に置かれている章が「リゾーム」です。リゾームとは、多方向に広がっていく中心のない関係性のことです。本来は植物学の用語で「根茎」のことで、横にどんどん広がっていく芝みたいな植物をイメージしてください。そして重要なのは、リゾームはあちこちに広がっていくと同時に、あちこちで途切れることもある、と言われていることです。それを「非意味適切断」と言います。つまり、全てが繋がり合うと同時に、すべてが無関係でもありうる、ということなんです。

一見矛盾するように感じられるかと思いますが、ここがドゥルーズ+ガタリのミソだと著者は言います。

「すべてが関係している」という発想は、ややもすると「すべてのことに責任をとらなければならない」という重苦しい発想につながっていくけれど、そうではなく、根本的に、すなわち存在論的な意味で「無関係性」を肯定しており、それは根本的な存在の「無責任」を意味しているのだ、と著者はしています。

無責任の重要性というと、そんなことがなぜ重要なのか分からない方もいるかもしれないので、説明させていただきます。

例えば、誰かを介護しなければならないとして、その人に自分の全生活を捧げてしまったら、介護者は生きていけなくなってしまします。あるいは、介護側からしても、援助は必要だけれども、それが過剰になると監視されているように感じてしまいます。たとえ人間関係において繋がりが必要でも、そこには一定の距離、より強く言えば、無関係性がなければ、我々はお互いの自立性を維持できなのです。つまり、無関係性こそが、存在の自立性を可能にしているのです。関わる必要があっても、関わりすぎないという按配が問われるわけです。

見捨てられ不幸な目に遭っている人に対する関わりが必要だというのはその通りですが、関わりばかりを言い過ぎると、それによって監視や支配に転化してしまう危険性があって、それに対するバランスとして、関わりすぎないということをいう必要もある、というのが、著者がドゥルーズから引き出している重要なテーマです。

ただし、この「関わりすぎない」というのを「関わらなくてよい」と取ってしまうと、社会が冷淡なものになってしまう。それは著者の言いたいことではなく、温かい社会を目指すからこそ、「すぎない」ことが必要とされるのだ、というように著者のテーマを捉える必要があります。

全体性からの逃走


ドゥルーズおよびドゥルーズ+ガタリでは、ひとつの求心的な全体性から逃れる自由な関係を言う場面がいろいろあって、自由な関係が増殖するのがクリエイティブであると言うのを同時に、その関係は自由であるからこそ全体化されず、断片的で作り替えが可能だと言うことが強調されます。
このような全体性から逃れていく動きは「逃走線」と呼ばれます。

金銭に毒されたコミュニケーションと空洞の必要性

既製の秩序の外に広がる関係性がクリエイティブだというポジティブなメッセージがある一方で、それが新たな管理体制に転化しないように、ということにもドゥルーズの強調点がありました。

ドゥルーズによると、コミュニケーションは金銭に毒され、腐りきっているそうです。そしてむしろ必要なのは「非=コミュニケーションの空洞」や「断続器」だと言います。

確かに、インターネットをよって人々が多様な声をあげられるようになりました。しかし、人々の道徳感情を刺激することで、メディアの商売が成り立っていたりします。また近年では、様々なSNSツールにも広告が溢れており、不要な物への購買欲を唆る設計が隅々までなされています。

人々を釣るようなビジネスに巻き込まれず、理性的に社会と向き合うために必要なのが、ドゥルーズのいう「非 − コミュニケーション」というわけです。

切断と接続のバランス

ここまでみてきたように、ドゥルーズには「リゾームの思想」と「逃走や遊離の思想」があります。クリエイティブな関係性を広げながら、尚且つ、非 − コミュニケーションが必要だ、と主張をしていることになります。

これは一見矛盾しているようですが、要は両者のバランスが重要になるわけです。また、関係性が広げつつ、全体のコミュニケーション量を減らすことも不可能ではありません。

すべての関係性は生成変化の途上にあります。人やその他の存在者と真剣に向き合うということは、その相手との断続性や密度も考慮した上で、より良い関係性を築いていくことだと思います。

ドゥルーズの思想は、「自己」や「周囲との関係性」などを再考し、よりよい関係性を築き上げるきっかけにもなるのではないでしょうか。


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