主体化と享楽と去勢、そして欠如
如何にして人間が「人間になっていくか」、即ち、「主体化」していくかという話になります。
ラカンによる発達論をモデルに説明したいと思います。ただ、ラカンの理論は非常に複雑なのでかなり省略します。
享楽
ここでの主題は、人間がいかに限定されるか、いわば「有限化」されるかということになります。
子供は当初、自己が成立しておらず母と一体的な状態にあります。
なお、ここでの「母」とは、その存在無しでは生き延びられない他者という意味です。このような広い意味での母が必要なわけですが、その存在は常に自分のそばにいてくれるわけではなく、自分を置いて、離れたところへ行ってしまうことがあります。(キッチンやトイレに行く等の小さな分離も含む)
子供はそのような分離を少しずつ経験するわけですが、その際に非常に不安な状態に耐えなければなりません。そして、母の欠如のように、理想的な状態から弾き出されることを「疎外」と言います。精神分析的には、母が必ずしもずっとそばに入れくれないことが最初にして最大の疎外です。
この疎外は、母がいたり、いなかったりするというランダムさによるものです。(子供には母の行動の理由が分からない)
ここで根本的な不安を引き起こしているのは、偶然性です。母なる偶然性です。
母が消える。強烈な不安で緊張する。その後、母が戻って抱きしめてくれる。というのは、極端なマイナスから極端なプラスへの逆転で、不安が大きいほど、その引き換えに途方もない快が得られます。
ここには「快」の二つの様相があります。
第一には、緊張が解けて弛緩すること。
第二には、偶然に振り回されて、死ぬかもしれないというギリギリのところで安全地帯へと戻ってくるスリルであり、不快と快を併せ持っています。
第一の定義が、普通の意味での「快楽」です。
それに対し、第二の快では、むしろ死を求めているようですらあり、フロイトの「死の欲動」という概念が当てはまるものです。
死の偶然性と隣り合わせであるような快を、ラカンは「享楽」(jounissance)と呼びました。
そして、根本的な「欲しさ」の対象は母であって、玩具の欲しさなど、何か外敵対象に向かう志向性は、母との関係の変奏として展開していくことになります。成長してからの欲望には、かつて母との関係において安心・安全 ( = 快楽) を求めながら、不安が突如解消される激しい喜び ( = 享楽) を味わったことの残響があるのです。
去勢
そして更にそこに、もう一人の人物が介入してきます。父です。
ここでの「父」とは、密接な二人の関係を邪魔するもので、実の父である必要は無く、概念的に言えば、「第三者」の存在を意味します。
子供にとって外的対象との関係は、母との関係の変奏だと説明しましたが、そこから離れて、第三者的な外部、即ち「社会的なもの」を導入するのが、「二」の外部にいる「三」の人物です。それは母子の一体化を邪魔 = 禁止するものです。
自分以外の誰か = 第三者との関わりのために母がいなくなってしまう、つまり、母がその誰かによって自分から奪われる、という感じが徐々に成立してきます。
故に 父 = 第三者 は憎むべき存在であり、母を奪い返さねばならないということになります。これが所謂「父殺し」の物語であり、以上のプロセスを精神分析では「エディプス・コンプレクス」と呼びます。
このようにして「外部がある」ということが子供の中で成立してきます。
こうした父の介入を、精神分析では「去勢」と呼びます。
安心・安全は、母の気まぐれ = 偶然性 によって崩れるわけですが、その理由は、父 = 第三者が世界に存在するからです。かなり簡潔に言うと「客観世界は思い通りにならない、だからもう母子一体には戻れない」という決定的な喪失を引き受けさせられることが去勢です。
欠如
そして、母の欠如を埋めようとするのが人生です。
しかし、それは埋められない。絶対的な安心安全は有り得ず、不安と共に生きていくしかないのです。しかし、そう悟っても、穴を埋めようとする。
それが人生です。
根本的な欠如を埋めようとすることが、ラカンにおける「欲望」です。
例えば、「かっこいい車が欲しい」など、特別なアイテムに心惹かれるとき、自分が欲しているものの背後には幼少期の根本的な阻害との複雑な繋がりがあります。
これを手に入れなければと思うような特別な対象や社会的地位などのことをラカンの用語で「対象 a 」と言います。人は対象 a を求め続けます。
ラカンの理論は非常に意地悪で、何らかの対象 a を手に入れたとしても、本当の満足には至らないということを強調します。対象 a というのはある種の見せかけであって、それを手に入れたら同時に幻滅も味わうことになり、また次の「欲しいもの」を探すことになる。そうして人生が続いていく。
このように言われると人生は虚しく思えますが、それでもいいのです。
もし何かが手に入り、「人生の目標が達成された!」となると、その後生きてゆく気力が無くなってしまいます。結局、何らかの対象 a に憧れては裏切られるということを繰り返すことで、人生は動いていくのです。
そして、このような論理自体をメタ的に捉えることで、欲望自体の滅却へと向かうのが仏教的な悟りです。
イメージの世界と言語による区別
おおよそ以上がラカンによる発達論で、エディプスコンプレクスの基本的な説明になります。その上で、ラカンの有名な三つ組の概念、「想像界・象徴界・現実界」について説明します。
ラカンは大きく三つの領域で精神を捉えています。
第一の「想像界」はイメージの領域、第二の「象徴界」は言語( あるいは記号 )の領域で、この二つが合わさって認識を成り立たせている。
ものがイメージとして知覚され(視覚的に、また触覚的に)、それが言語によって区別されます。これを認識と呼びましょう。第三の「現実界」はイメージでも言語でも捉えられない、つまり認識から逃れる領域です。
人間の発達では、まずイメージの世界が形成されていきます。
自己がはっきりしておらず、刺激の嵐にさらされている生まれたばかりの子供は、対象を十分に区別できず、全ては境目が曖昧で、ぼんやり繋がっている。
そこに言語が介入するわけですが、言語が行うのは「分ける」ことです。名前を与え、イメージのつながりを切断し、制限する。一定の形態を指差しながら言葉を言うことで、世界が対象に分けられていく。
その過程で、鏡によって、子供は自分自身の姿を初めて見ることになる。
そして名前を呼ばれ、そのひとまとまりのイメージを自分のものとして引き受けるようになる。このことをラカンは「鏡像段階」と呼びます。
鏡像段階を通して自己イメージができる。それは想像界と象徴界の交わりによって可能となるわけです。人間は自分自身の全体像を見ることができません。鏡によって間接的に(しかも反転した像として)見るしかない。自己のイメージは常に外から与えられる、というのがラカンの重要な教えです。
鏡像というのは、鏡に映った姿だけではなく、自分について人から言われることや、有名人やアニメのキャラなどをモデルにして自分のあり方を調整するといった時の外的なもの全てを指します。
大人になっても我々は日々、鏡像的な自己イメージの作成を続けています。
(だから、「自分探し」は終わらない)
端的に言うと、自己イメージとは他者なのです。
そして、先に説明した去勢によって、想像界に対し、象徴界が有利になります。混乱したつながりの世界が言語によって区切られ、区切りの方から世界を見るようになる。象徴界の優位とは世界が客観化されることです。ですがそれは、原初のあの幸福と不安がダイナミックに渦巻いていた享楽を禁じることを意味します。
小さい頃は、ただ好きに線を走らせて、前衛的にも見えるような絵を描いたりします。しかし、成長してくると「おうち」や「くるま」などを書くようになり、更に、丸を二つと横棒を書いて「顔」とするような記号的で一対一対応的な表象によって覆いつくされていきます。象徴界によって、想像的エネルギーの爆発が抑圧されてしまうのです。
想像力はいろいろなものを区別せずに繋げてゆく。ところが、言語は分別ができるようにするもので、「こっちはこっち、向こうは向こう」ということになります。ですから、言語習得というのはある意味世界を貧しくすることなのです。けれども、言語を習得しなければ、人間は道具はおろか、体すらまともに動かせないでしょう。人間は動物とは異なり、言語習得との関係で世界を文節化し直すという「第二の自然」を作り出さなければ、その中で目的的な行動をとることができないのです。
目的的、実利的にものを区別して行動する「ちゃんとした人間」になっていく過程で、境界を超えていろいろな物事を接続するような想像力は弱まることになります。けれど、なくなるわけではない。「芸術とは子供になることだ」とよく言われますが、精神分析的にはそれ以上のような意味なのです。
現実界、捉えられない本当のもの
イメージと言語によって認識が成立し、意味が生じているわけですが、全く意味以前的にそこにあるだけ、というのが現実界です。直接現実界に向き合うことはできません。
では、意味以前の現実界とは何か。それが成長する前の原初のあの時だそうです。刺激の嵐にされされ、母の気まぐれに振り回されていた不安の時、不安ゆえの享楽の時です。それが、認識の向こう側にずっとあるそうです。
幼少期に原初的な満足を喪失したということが常に世界の影として残り続けているのです。