イギリス小話***②コーヒー
最近どこに旅行に行くのにも自分で焙煎してパッキングまでしたドリップパックを幾つか持っていき、旅先で飲むのを楽しみの一つとしている。
というのも、コロナ禍にコーヒーの勉強をし、淹れ方や焙煎の仕方等々で様々に変幻自在に操れるコーヒーの世界にハマり、焙煎機まで買い、自作のコーヒーを販売するという事も始めたからである。
今回のイギリス旅行にもそのマイブレンドのコーヒー数日分(今回はマンデリン)をスーツケースに忍ばせて行った。
前置きはこれくらいにしてイギリスで飲んだコーヒーについてをお話ししよう。
イギリスに着いて初めて飲んだコーヒーは深夜のスーパーTesco内で見つけた販売機のマシンのCOSTAコーヒーだった。
初めてなので良く使い方が分からず、大きなカップを設置、選べるのはアメリカーノ、カプチーノ、ラテ…
辺りだったろうか?
販売機と言ってもスーパー内で買ったものと同じような扱いで出口のレジでお会計となる。
飛行機の中でコーヒーにありつけなかった私はここでやっと飲めたコーヒーに救われる。
味は「まあまあ」だったが、カフェイン不足になっていた私にはお薬みたいなもの、とりあえず飲めたことに安堵…笑
2回目に飲んだコーヒーはノッティングヒル、カムデンタウンと観光した後に歩き疲れ、雨も降っており、コーヒーでもと通りすがりのカフェに入り、飲んだもの。
あまり愛想の良くない中年の女性店員にビビりながらも英語でエスプレッソをオーダー、夫はアメリカーノ。
疲れていたからか?久しぶりの濃いコーヒーだったからか、ここのエスプレッソはとても美味しくて、お代わりしたいほどだった。
この後、ロンドンのバービカンホール、V&A博物館、エジンバラの商店街、リバプールライムストリート駅などなどのカフェで、移動の電車内のサービスで、沢山のコーヒーを飲んだけれど、ここのエスプレッソの味が一番美味しくて、これ以上感動するコーヒーに残念ながら出会えなかった。
どこで飲むコーヒーも全てエスプレッソをお湯で薄めるタイプのアメリカーノを頼んだ。
逆に言うと、それしかなかった。
ホテルにサービスで設置してあるコーヒーもインスタントか、良くてドルチェグストのタイプ。
イギリスでは、いやヨーロッパではドリップコーヒーは一般的なものではないのだろうか?
などと思いながら宿泊先で、持参した自作のドリップパックを大切にお湯を注いで、ゆっくり飲む。
ドリップパックはお湯さえあればどんな環境でもおいしいコーヒーが飲める。旅先はそれを実感する何よりの機会である。
あぁ、持ってきて良かったと今回も心から思った。
そもそも、イギリスと言えば紅茶の方が有名で馴染みが深く、美味しい紅茶を楽しむための焼き菓子なども豊富にある。
スコーンやマフィン、ショートブレッド、ファッジなどはどちらかと言うと香りの強いコーヒーよりも温かい紅茶でほろほろと溶かしながら食べるのが理想的な気がする。
かと言ってコーヒーが余り飲まれていないということはなく、カフェ文化もしっかり根付いており、街中にもコーヒーチェーン店はそこかしこに点在している。
イギリスとコーヒーの歴史を紐解いてみると、17世紀にアルコールなしで人々が交流できる「コーヒーハウス」という形で大流行したものの、政治的な情報交流の場として利用されるようになり、100年ほどで多くのコーヒーハウスが閉店するという歴史があったようだ。
紅茶文化が浸透した背景には、こうした事情もあるのだろうか。
その後、コーヒー文化の衰退により、コーヒーを飲む習慣が長期間民衆から奪われてしまった?であろう事は想像に難くない。
そんな歴史は後から調べたことで、旅行中には知る由もなく、
ただアメリカーノに飽き飽きしていて、お店で淹れてくれる温かいドリップコーヒーが恋しくなった。
イギリスではドリップコーヒーを飲むという文化は浸透していない!
今までもなんとなくはわかっていたけれど、実際にこの地に来て、新たにそれを実感したのだった。
日本で飲めるコーヒー専門店やちょっとしたコーヒーに拘りのある喫茶店には、選択肢が沢山ある。
コロンビア、ブラジル、マンデリン、グアテマラ、キリマンジャロ等々豆の種類や、
炒り方も浅煎り、中煎り、深煎り
抽出方法も紙フィルターのドリップ、ネルドリップ、エスプレッソ、マキネッタ(パーコレーター)、フレンチプレス、サイフォン、水出し…
これらの組み合わせを変えることでも、一体どれだけの種類のコーヒーを楽しむことができるだろうか?
無限である。
かくして、日本の多種多様なコーヒー文化にまた改めて惚れ直すことになった。
そして、この記事を読んでくださっている全てのコーヒー愛好者のために、余計なおせっかいの伝言を1つ…
非日常の旅のお供に普段飲んでいる特別お気に入りの(フレッシュさが重要)コーヒーを持っていくことを特にオススメしたい。
それは非日常と日常が交錯する何とも言えない多幸感に満ちた時間になることは間違いない。