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2004年、いつもは木材の耐久性の科学的技術の国内外の紹介や、暴露実験の研究発表などが公表されてる機関紙だが。

”サイエンスなき環境談義”という題で、渡辺正先生が環境問題について短く纏められていて、自分も目を開かされた思いだった。
考え方の方向性を的確に教えて頂いたように思うし、
新聞や雑誌、今ではネット・SNSでの情報発信があるのだが、じっくり思考しながら見ることが少なかったなあ、という反省にもなるレジュメのようだった。

以上の文を読み、参考文献のビョルン・ロンボルグの下写真の本を読んでみた。

レーチェル・カーソンの”沈黙の春”を嚆矢にして、日本では”複合汚染”(有吉佐和子)が環境問題を俎上にあげ、高度成長の日本の社会問題として現象をとりあげた古典的問題作。
石牟礼道子さんの”苦海浄土”は、有機水銀の後遺症に悩む患者さんの凄い描写から、セリフから哲学的な、人間の”生”まで考えさせられる書だった。

環境問題も、2000年代にはいると、ケミカルな話より、地球全体の気候や食糧問題、水資源の大きな”環境”問題に移行している。
ケミカルな問題は、特定しやすかったとは思う。

卑近な例だが、昔、亜熱帯の石垣島より、都内の方が、夕方の籠ったような暑さで辟易した覚えがある。

亜熱帯~熱帯の台湾が東京より涼しく思うことがあって、ヒートアイランド現象にも興味が出て来ている。

環境問題は、経済的問題と結びついて、正しいとの科学的推論と感情論的意見がせめぎ合うときがある。局地的でなく、広範囲にわたる環境問題となれば、原因が完全に特定しにくいわけで、様々な変数が絡み合うので、原因究明が、難しいのだろう。

環境に与える変数のなかで、そこに入るべき数値の大きさに依って、つぶしていくということになるのだろうか?




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