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【短編小説】優先席
私はいつも優先席には座らない。
それがその席の「本来の使い道」だと思っているからだ。
お年寄りや体の不自由な人、妊婦さんに譲るべき場所だと、ずっと教わってきた。
だから、絶対に座らない。
でも、それ以外の席には座る。
周りに空いている席があれば、迷わず座る。
目の前に誰が立っていようと、
自分が疲れていれば、
席を譲ることなく座ってしまう。
ある日、満員電車で目の前におじいさんが立っていた。
おじいさんは少しよろけながら立っていて、顔には疲れが見えた。
心の中で「席を譲らなきゃ」と思った。
でも、どうしても体が座りたかった。
疲れていたし、座っていることで安心したかったから、譲らないことを選んだ。
そのとき、ふと周りの目が気になった。
「もし、今譲らなかったら、みんなどう思うんだろう?」と、目の前のおじいさんのことより、周りの人の視線が気になった。
もし、席を譲らなければ、
誰かが心の中で「なんで譲らないんだろう?」と思うだろうし、
それが自分に向かってくるのが怖かった。
でも、その時は結局、
席を譲ることなく、
次の駅でおじいさんが降りるのを見守るだけだった。
———
その日の帰り道、
その出来事が頭を離れなかった。
「譲らなかったこと、周りからどう思われたんだろう」
「もしかして、あの時、譲るべきだったんじゃないか?」
でも、そんなことを考えたところで、
答えは出ない。
自分の行動に疑問を持ちながらも、
その場で譲らなかったことに対する後ろめたさが、胸に重くのしかかっていた。
周りの目が気になる自分が、
どこか情けないと感じる。
なんで自分は、他人の視線をそこまで気にするんだろう。
どうして「良い人」でいなければならないと思ってしまうのか。
心の中では、譲るべきだとわかっている。
わかっているけれど、体が疲れているとき、
他人に譲ることがどれだけ自分にとって負担になるのか、その感覚をどうしても無視できない。
自分の心と体が疲れている時、
他人に譲ることが「正しい」と思うのに、
その優先席に座っていることが自分にとって「休む権利」を守る唯一の時間に感じてしまう。
「でも、そうやってずっと譲らないでいるのは、良くないんじゃないか?」と、
反省の気持ちも湧いてくる。
———
翌日、再び同じようなシチュエーションに遭遇した。
今度はまた別のおじいさんが目の前に立っていた。心の中で、また「譲らなきゃ」と思う。
でも、体が言うことを聞かない。
目の前で立っている人が「立つのが辛そうだな」と感じても、自分が座っていることで得られる安堵感が大きすぎて、譲る決心がつかない。
そのまま、何も言わずに目を合わせないようにしていた。
おじいさんが次の駅で降りるのを見送りながら、また心の中で後悔がよぎる。
でも、譲らなかった自分に対する言い訳が、
どうしても頭から離れない。
「疲れている自分を大事にしてもいいよね?」
「譲らなければいけないって思うのは、他人が決めたルールじゃないか?」
またその日も、
心にモヤモヤを抱えながら帰宅する。
帰り道、車内で自分を責めながらも、
少しだけ肩の力を抜いている自分もいる。
自分にとっての「譲らない選択」が、他の誰かから見たらどんなに冷たい行動に映るか、
それを理解しつつも、自分の心を守るためには、今の自分を責めるわけにはいかないと思った。
———
結局、私は「譲るべきか、譲らないべきか」を常に考えてしまう。
疲れている時や、自分の心情が乱れているときには譲れないこともある。
でも、その理由が「疲れているから」とか「相手が自分と同じように立っていられるから」だとしたら、心の中でそれをどう思うべきなのか、
未だにわからない。
自分の心の中にある、「譲らなきゃいけない」という義務感と、「自分も疲れているから、譲りたくない」という気持ち。
そのバランスを取ることが、私にはとても難しい。
でも、何度も考え直しながら、
少しずつ自分ができる範囲で他人を気遣う気持ちも持ちたいと願っている。
疲れた時こそ、自分を大切にすることも大事だし、他人に譲ることで、少しでもその日を良くしてあげることも大切だと思うから。
ここまで読んでいただきありがとうございました‼️☺️
皆さんは、疲れているときに席を譲ることができますか?譲らない自分に後ろめたさを感じることがありますか?