チョコミントと教育の香り
昔に読んだ宮本映子さんのエッセイ「ミラノ 朝のバールで」にこんな一節がありました。
「確かに教師にとって、あいつは厄介な生徒だろうな。でもあんな奴、探せと言ったっていないよ」
この誰かの話したアンビバレントな言葉が宮本さんを通して、私にとても響きました。
目が覚めるというか、何か視点が180度変わるというか、すっきりとしたミントの香りが直接に凝り固まった脳をさわやかにしてくれるような感じです。
それにこの言葉には愛がたくさん詰まっている感じがします。
このセリフを言った人は「あいつ」を大事に思っていることが伝わってきます。
なんて素敵なセリフで、長い人生を生きる上で、豊かな人間模様でしょう。
まるで、爽やかさと甘さがいいバランスでミックスされているチョコミントアイスのようです。
甘じょっぱいとか、甘辛いとかはたくさんありますが、爽やかと甘いが掛け合わさったものって他にあまり例を見ない気がします。
この相性が一見合わなそうなものが一つの食べ物として存在しているということに人間の発想の豊かさと、キャパシティの広さを感じます。
お互いを殺しあわず、むしろ生かしあうとことろが素晴らしいです。
さて、教師にとって厄介な生徒というのは、果たしてどういう生徒のことを言うのでしょうか。
それは、良い生徒、悪い生徒ということではなく、管理しにくい生徒という意味が多分に読み取れます。
管理しにくいというのは、黙って自分の考えを出さずに議論をもたらさずに、教師の思い通りに動いてくれる生徒の反対と捉えられるでしょう。
学校というのは、大勢の人間が一堂に会して同じことをします。
そうであれば、スムーズに進行された方がラクなのは間違いないでしょう。
自分がもし教師であったとしても、それを望むでしょう。
しかし、そこが「学びの場」だとしたら、果たして、スムーズに進行されることが優先事項なのでしょうか。
学ぶにあたって、人は興味も違うし、飲み込み、理解する速度も違います。
もちろん、同じ社会を生きる上で、ある程度共通したことことを学んでいくことは必要だと思います。
基本は基本として学び、そこからその基本の種をどうやって育てていくのかは本人が見つけていってもいいのではないか、とも思います。
もしかしたら、宮本さんのエッセイの中の厄介というのは違う意味で使われていたのかもしれません。
やんちゃで学校に来ることもない、そういうことかもしれませんし、本当はどういう意味で言われたかはわかりませんが、それでも、今の学校教育について考えた時、「厄介な生徒」とというのは、学校そのものが作っているのかもしれないなと思います。
というのは、この世の中がインターネットの発展で、大きく様変わりをしているのに、学校のシステムとかはそこまで変わっていないように思えるからです。
数十人の同学年の人間で、教室で教師から学ぶというスタイルが変わらないというのはそれが人間に合っていることだからなのでしょうか。
だとしたら不登校児が多くなっている理由は?
学ぶということをもっと、幅広く考えられたらいいのではないかと思っています。
与えられたもので、勉強するとなるとその範囲を超えません。
問いを自ら作り出すという教育があってもいいんじゃないかと思いますし、そういう授業をやっているところもあるかもしれません。
ただまだ広がっていないし、あまり一般的ではないように思われます。
昔の日本はすごかったとよく言われます。
昔の日本はすごかったというは、あまりモノが無いところから作るというのが当たり前だったからなのではないでしょうか。
自分の中から問いが出てきたということではないでしょうか。
意思と情熱が創作の原動力であり、発想の種だったのかもしれません。
それが厄介でない生徒から生まれる可能性はあるでしょうか。
厄介でないというのは外の世界に疑問を持たないということでもあるかもしれません。
疑問から私たちがスタートするのであれば、教師が答えられない疑問を持つまで育てるのが教師の役割なのかもしれません。
そこから始まるのがその生徒の人生です。
「でもあんな奴、探せと言ったっていないよ」と言われる人間は、たいてい居酒屋や飲み会、パーティー、家族や親せきの集まりでみんなが語らずにはいられない何かを持っています。
それが良い話なのかは別として。笑
ただ、そういう人間が世界を動かしてきたのもまた事実です。
私たちはそうやって、自分の人生を彩ったり、退屈を消したりもしています。
教育とは何か、ということを思った時、教室で学んでいる生徒の目がキラキラしていたり、キッと鋭く光る眼差しであれば、それは教育と言えるでしょうが、死んだような目でただ時間が過ぎるのを待っているだけならば、それは一体何を育てているのかわかりません。
わからないから面白い、出来ないから面白い、そういうこと信じる力も教育を受けてきた大人には必要なのかもしれません。
私たちが使っている通信機器はどんどん変わっているのに、システムという有形ではないものを変えるのってすごく難しいんだなぁと思うのが、少し生きてきた私の感想です。