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他人の幸せに無関心な時代? 心の内を探る
「貴方は、他人の幸せをどれくらい心から祝福できるだろうか?」
友達が恋人と幸せそうにしていると、自然と笑顔がこぼれる人もいるだろう。親しい人の成功や喜びを目の当たりにして、自分も心から嬉しくなることがあるだろう。しかし、ふと気づいた。人は本当に他人の幸せに興味があるのだろうか?
最近、私の頭の中でこの疑問がぐるぐると巡り続けている。
きっかけはSNSでの出来事だった。私は、日々のちょっとした出来事や愚痴をSNSに投稿している。些細なことでも、時折「いいね」がつき、フォロワーからコメントが飛んでくることがある。あの投稿に反応してくれた、何気ない一言に救われた。そんなやり取りをするうち、気付いたら仲の良いフォロワーが数人できていた。
そんな中、ある日、一人のフォロワーがこんなことをつぶやいていた。
「みんな人の不幸が好きだよね。私が彼氏の話をするとイイねも少ないし、フォロワーも減る。けど、辛いことや悲しいことを話すと急にイイねが増えるんだよね。他人の不幸を見て喜んでるのかなって思っちゃう。」
その言葉に、私はハッとした。確かに、幸せいっぱいの投稿よりも、不幸な話や自虐的な投稿のほうが「いいね」が多い気がする。
「果たして、本当に人は他人の不幸を喜んでいるのだろうか?」
フォロワーのつぶやきに心を揺さぶられた私は、自分自身の投稿やフォロワーたちの反応を振り返ってみた。悲しみや苦しみを共有した投稿に対して、多くの反応が寄せられていた。共感や励ましの言葉、時には感謝のメッセージまで飛び交う。だが、幸せな瞬間や、ポジティブな出来事をシェアする投稿は、意外にも反応が薄かった。なぜだろう?
ある統計によると、人はネガティブな情報に対してより強く反応する傾向があるという。これは、進化的な理由によるもので、危険を察知して生き延びるために、私たちの脳はネガティブな情報を優先的に処理するようになっているのだという。つまり、私たちの「いいね」やコメントは、単にその人の不幸を喜んでいるわけではなく、無意識のうちにネガティブな情報に対して反応してしまっている可能性が高い。
だが、それでも私は少し違和感を覚える。
SNS上では、自分の苦しみをシェアすることが、他者とのつながりを感じるきっかけになることが多い。特に現代では、孤独やストレスを抱える人が増えており、自分が感じている不安や不満を誰かに分かってもらえる瞬間は、非常に貴重なものだ。不幸や苦しみの投稿に対する「いいね」は、単に不幸を楽しむためのものではなく、共感や連帯感の表現であることが多いと私は思う。人は、自分と同じ痛みを感じることで、安心感を得るのだろう。
しかし、それでも幸せな瞬間を共有する投稿に対する反応の少なさは、やはり気になる。「他人の幸せに興味がないのではないか?」という疑念が、心の片隅にずっと残る。
人は本当に他人の幸せに無関心なのだろうか?
この問いに対する答えは簡単には見つからない。しかし、ひとつだけ言えることがある。私たちは、誰かの不幸を見て安心するのではなく、その人が感じている痛みに共感し、励まし合っているのだと。誰もが孤独や苦しみを感じたことがあり、その瞬間に寄り添ってくれる存在がどれほどありがたいかを知っているからこそ、不幸な投稿に対して反応するのだ。
では、幸せな瞬間をどう扱うべきか? それは、人間関係や文化によって異なるだろう。幸せな投稿が反応を得にくいのは、時に嫉妬や疎外感を生むこともあるからだ。他人の成功や喜びを見ることで、自分の不満や不足感が浮き彫りになることがある。
しかし、それでも、私は信じたい。人は他人の幸せに無関心ではなく、ただその喜びをどう表現すればよいか、戸惑っているだけなのだと。幸せは、時に静かに共有されるものだからこそ、目立たないだけなのだ。
結論として、他人の幸せに対する反応の少なさは、無関心や悪意ではなく、私たちの心理的な働きや共感の表現の仕方によるものだろう。人は不幸な時にこそ繋がりを感じ、幸せな時にはそれをそっと見守ることが多いのかもしれない。
そして、幸せの共有は、誰かのためではなく、自分自身のために行うものだ。誰かがそれを祝福してくれるかどうかに関わらず、自分が幸せを感じ、それを表現することに意味がある。