『平凡パンチの時代』 第九章 永遠の映画少年
昭和30年代から40年代にかけての日本社会の発展、変容について語るとき、必ず引き合いに出される、定番的ないくつかのことがらというのがある。まず、一番ひんぱんに登場するのが昭和31年の経済白書のなかの「もはや戦後ではない」という一節と、同時期に石原慎太郎が『太陽の季節』で芥川賞を受賞したことだ。このふたつはとにかくわかりやすくて、時代がガラッと変わったことを説明するためにセットになって登場することが多い。わたしもすでに、第3章の108頁と第6章の259頁の2箇所でこの話を使っている。
それから、皇太子殿下(今上天皇)のご成婚とテレビの受信機の急激な増加、これに女性週刊誌の登場も付け加えられて、女性が文化のメインストリームに流れ込んできた風潮を語るために、これらのことが語られることが多い。さらに、昭和35年の安保闘争の終焉とそれとほとんど入れ替わる形で劇的に始まる所得倍増計画、岸信介から池田勇人へのバトンタッチも昭和30年代の高い経済成長を背景にした豊かな社会への成長と、生活の豊かさの実現を暗示、あるいは明示しているものだ。
これらのなかにあって、同様に戦後昭和の急激な社会変貌を語るために持ち出される、一転して苦渋にみちた、悲惨なと書くより仕方のない数字がある。それが、日本の映画産業の年次の観客動員数である。いま、わたしの手許に昭和48(1973)年版の『映画年鑑』があるのだが、そこにはピークであった昭和33年から昭和46年にかけて、13年間の映画を映画館まで見に行った人の数を集計した一覧表が載っている。一応、これをとなり頁に引用参照しておこう。
この数字は戦後昭和、20年代から30年代前半にかけて、国民娯楽の王様といわれた[日本映画]がこうむった壮絶な後退戦、全面決壊のような敗北を端的に示している。真っ逆様に滝壺に落っこちていくような数字の猛烈な失墜は、昭和39年の『平凡パンチ』創刊時にはなんとか歯止めがかかっているのだが、それでも、昭和39年から昭和46年の大映が倒産するまでの8年間で、マーケットがさらに約半分の規模に収縮しているのがわかる。そのなかで撮影所が機能しなくなり、映画監督は映画を作らせてもらえなくなり、俳優は映画に出させてもらえなくなり、そして映画産業の労働者たちは大幅に整理されて、膨大な数の人々が失業していった。この数字はそういうことも象徴している。
いったい、なにがあってこういうことになったのだろうか。日本の六〇年代は文化領域のあらゆる場所が日々繁栄の度合いを増し、あらゆるものごとが隆盛していった時代であったが、そのなかでただひとつ、映画のマーケットだけが五〇年代に全盛期を終わらせて衰退していったのである。
映画は戦後の復興期を通じて、国民的娯楽として、さまざまの人々に楽しまれた。五〇年代後半には街の繁華街にはどこでも決まったように映画館があって、換気のよくないタバコの煙が立ちこめるような薄暗い館内で、休日の前夜などは当たり前のように立ち見の客が出るほどに賑わった。
その時代の映画館を取り囲む空間は生活に疲れた人々の物語への熱狂や安らぎの息遣いが聞こえてくるような場所で、そこで上映されるチャンバラや活劇やドタバタ喜劇はとりわけ、子供や若者たちにとっては幸福感が凝縮されて存在している、エネルギーの坩堝のような特殊な世界であった。わたしも子供のころ、日曜日というと家のちかくの三軒茶屋の映画館にいって、『紅孔雀』とか『渡り鳥シリーズ』とか、東映の時代劇や日活のアクション映画に熱狂した記憶がある。
それらはいま思えば、素朴極まりないプログラムピクチャーだったが、それでもそれらの作品のなかにもにも見て楽しいという素朴な娯楽としての側面のほかに監督や脚本家、製作者たちが作品に込めたある種のメッセージ性があった。つまり、形態は特殊だがメディアでもあった。映画が娯楽であると同時にメディアであり、テレビや雑誌、新聞が果たしていた役割と同様の機能を持ったものであったのだとしたならば、社会が発展してテレビ、雑誌が隆盛を極めていくなかで、映画だけがなぜ、衰亡していってしまったのだろうか。
『平凡パンチ』の創刊号をめくると、まず一番最初にその『赤ひげ』に扮した俳優・三船敏郎のスチール・ピンナップが目に飛び込んでくる。赤ひげ自体の封切りは創刊の翌年、昭和40年4月、『パンチ』の創刊から1年も先のことである。『赤ひげ』は完成、上映後大ヒットして、「戦後、モノクロ日本映画の最高傑作」といわれたが、この時点で、当時の『パンチ』の編集者たちが、『赤ひげ』を戦後ヒューマニズムの集大成の象徴として意識して三船のピンナップを挟み込んだとも思えない。
主演俳優の三船敏郎の扮装写真が当時、映画の宣伝戦略的にどういう位置にあったのかは正直いってわからない。『赤ひげ』の撮影は昭和38年から始まっていて、まだまだ製作中、実に3年近い歳月を費やして完成するのである。『赤ひげ』のピンナップの『パンチ』掲載についての周辺情報がないから、どういう経緯の話かは不明だが、東宝、黒澤明にとっても、どんな雑誌になるかわからない、日本で初めての男性週刊誌にこのスチール写真の掲載の許可を出すのはかなりの冒険だったのではないか。なにしろ、このころは黒澤明は撮影所のなかでは天皇陛下のようないわれ方をしていた人なのである。あるいは、話は逆で、どんどん衰退していく日本映画界にあって、いくら巨匠が作っている最中の大作と下馬評の高い映画だとはいえ、まだ、イツできあがるかもわからないような未完作品なのである。そんな映画のスチール写真に清水達夫はどうしてこんなにこだわったのか。映画の立場に立っても雑誌の立場からも、全く異なるふたつの考え方をわたしたちはすることができる。
『平凡パンチ』の創刊号は、たしかわたしも豪徳寺の駅の売店かなにかで50円だして買った記憶がある。うっすらと覚えている印象では、確か、同様の形でアメリカの女優アン・マーグレットのピンナップもついていたと思うのだが、雑誌全体のまとまりのなかでは、〈これが噂の映画の『赤ひげ』か〉ぐらいのことは思ったかも知れないが、どうして三船敏郎の写真なんか、ここに入ってるんだろうと訝しんだような気がする。編集の流れで、それはそういう選択もあるのだろうが、いまあらためてよく考えてみると、必ずしも必然的な編集作業ではない。
どうしてこんなことを延々と書いているかというと、黒澤明と清水達夫がじつはかなり昵懇というか、お互いのクリエイティブ・マインドを支え合っていたような、あまり知られていない事実があるからだ。知られていないから、このことはほとんど触れられていないが、昭和20年の年末、清水が編集長だった創刊第2号の『平凡』に、黒澤明は自分で書き下ろした『喋る』という戯曲の台本の原稿を寄稿しているのだ。じつは、わたしの手許に『下町風神雷神』という仮タイトルを付けた対談集の未刊原稿がある。原稿用紙200枚ほどの短い作品で、清水が死の直前の1993年に作家の百瀬博教と何度か行った対談をまとめたものだ。ふたりで東京の本を出そうという話になっていたらしいが、清水の死によって出版予定が無期限延期となった未完の作品である。
普段、無口で大声でものをいわない清水達夫が百瀬博教の前にいくと、子供のようによく喋ったのだという。清水と百瀬は清水が結婚した昭和15年に百瀬が生まれていて、ちょうど親子ほどに年齢が違う(26歳違いである)のだが、かたや日本橋の生まれ、百瀬の方は柳橋の生まれで、江戸っ子同士で波長がピッタリ、ということだったらしい。『下町風神雷神』は、自分たちの生まれ育ったあたりをうろつきまわりながらした雑談、昔話、おしゃべりをまとめたものである。この作品は清水の死後、夫人の多喜の反対で刊行できなかったのだという。百瀬博教はこの対談集の刊行を夫人が反対した理由まではわたしにいわなかったから、どうしてお蔵入りになったかわからないのだが、対談のなかで、いつもの寡黙なありようから離れて、人が変わったように饒舌に過去のことを喋っている清水が気に入らなかったのかも知れない。あるいはこのなかに若いころ、いろんな女性に向けて何通ものラブレターを書いた、結婚してからそれを妻に見つけられたという清水の告白があるのだが、その箇所がお気に召さなかったのだろうか。それで、この話はそこからまだ経緯があり、多喜夫人が亡くなったのが2006年の9月で、夫人の死を知って百瀬がわたしに、
「塩澤、オレ、この本をチャンとした形にして出しておきたいんだよ」
といったのである。夫人とのやりとりでなにがあったか知らないが、彼は多喜夫人が存命中は出版しないというふうに考えていたらしい。
それで、百瀬博教の作品として本にするということで依頼されて編集作業をしている最中に、今度は百瀬本人が死んでしまった。そういう、数奇な運命を経てきた、清水達夫の肉声が綴られた対談集である。このなかにこういう一節がある。自分の中学校時代の思い出を語っているのだ。
私は(小学校の時は)卒業生総代で卒業証書を貰った事を覚えていますが、中学へ進学してからはだんだん成績が落ちて、特に数学が嫌いだったから**(録音テープの声がかすれていて聞き取れなかったらしい=註)というあだなの数学教師に叱られた時、
「僕は美術学校へ行って絵描きになるんだから、数学はできなくてもいいんです」
などと生意気な事を答えて、その教師を烈火のごとく怒らせてしまった。得意だったのはやはり国語と作文で、中学二年の時に書いた詩が校友会雑誌に掲載されて、ご褒美にメダルを貰ったんです。
そのメダルには││人生は短く芸術は長し││とラテン語で印されていて、その時は二年生では私一人でしたので、それがその後の私の人生の方向を決定するものとなった。その時の詩の掲載されている校友会誌が学校に保存されていて、数年前校長のご好意で見せて戴いて、もうすっかり忘れてしまった中学二年生時代の自分の詩を読んだ時は全く感慨無量でした。同じ校友会誌に私より先輩の黒沢明監督の中学時代の作文が載っていて、これも懐かしく感銘深い文章でした。
あとさきのことは省略したが、要するに黒澤明と清水達夫は同じ白山の京華中学の同窓生なのである。ここで、この対談時に、百瀬に『平凡』創刊時代の黒澤と清水のやりとりを思い出してもらって、もう少し詳しい話を聞いてもらいたかったが、黒澤明が『平凡』に原稿を書いていたこと自体、ほとんど知られていないのだから、百瀬の話のつっこみが浅いのもやむを得まい。黒澤明は昭和20年代に二度、『平凡』に原稿を書いている。一度は、この創刊時の『喋る』だが、もう一回、昭和25年に自身が映画化したドストエフスキーの『白痴』を短い読み切り絵物語にして、掲載している。
清水も黒澤もかくべつこのことについて書き残したりということはしていないが、ふたりは3歳違いで、中学5年間のうち、少なくとも2年間は同じ学校でいっしょに勉強している。そして、ともに、画家志望だったのである。これは清水が戦前の電通時代から東宝の宣伝部と仲がよかったこととも関係があるのかも知れないが、『平凡』創刊から約20年後に新雑誌の『平凡パンチ』のなかに『赤ひげ』のピンナップが挟みこまれていたのは、じつはふたりの少年時代にさかのぼる交誼の証しなのである。
黒澤明も昭和40年に『赤ひげ』を撮りあげたあと、東宝と喧嘩したりハリウッドと喧嘩したりしながら、昭和46年、大映の倒産直後に自殺未遂を引き起こすなどして、尋常でない[平凡パンチの時代]を過ごすのだが、それらのことの詳しい事情は拙著『KUROSAWA』などに細かく書いたので、そちらを参照していただきたい。
さて、それで自身も『平凡パンチ』の創刊号周辺からの映画コラムの執筆者であった評論家・佐藤忠男は、[平凡パンチの時代]を次のように解読する。
『平凡パンチ』が創刊された1964年、昭和39年というのは日本の戦後の区切りとしては非常に重要な年だと思うんですよ。その年起こった重要なこととしては、中国で文化大革命が始まったこと、それから白戸三平の『カムイ伝』の連載が始まったこと、ベトナムの反戦運動がこの頃から非常に盛んになってきたこと、映画でいえば、アングラ映画がこの頃から表面化し始めること、そしてこの前年あたりから東映がヤクザ映画一色になっていくことでしょうか。
同じ年の新幹線とか東京オリンピックとか、これらのことは日本が経済大国化していくひとつの重要なステップで、この時期に急に表面化したということでしょうね。それまでは、日本は貧しい国だという意識が非常に強かったんだけれども、この頃から急に経済大国化が始まったということでしょうね。
たとえば白戸三平の『カムイ伝』、それとアングラ映画とかっていうのは、要約していえばカウンター・カルチャーの出発っていうことでしょうね。主流の芸術に対する反主流の芸術っていうことなんだけれども、それが俗っぽい大衆文化、風俗現象として現れた。
もちろん、反権威主義というか反主流的な文化としての実質というものはきちんと持っているんだけれども、それが高級な上品な芸術運動じゃなく、むしろある程度、俗悪なスタイルを持って姿を現した。その動きに『平凡パンチ』はじかに結びついていた。そして、日本国内のこの動きはアメリカのベトナム反戦運動とか中国の文化大革命とかと連動していたんだと思いますよ。既成の秩序に対する反対というのが世界的な規模で起こった。若者の動きが世界の情勢を変えるような、それまであり得なかったような現象が起こった。
佐藤忠男は、映画というものを日本の文化全体のなかでどう位置付けするのか、あるいは近代以降の歴史のなかで映画はどう変遷していったのか、そのことを解明することが自分にあたえられた任務と考えて昭和以来、執筆活動を続けてきた映画評論家である。
戦後の日本社会の発達のなかで映画とはいったいどんな存在だったのか、映画は何を大衆に訴えかけようとして衰亡していったのか、彼はそのことを執拗に問いつづけてきた。その作業の具体的な成果は平成7(1995)年岩波書店から刊行された『日本映画史』全4巻にまとめあげられている。『日本映画史』は日本映画の発生から現在までの盛衰を緻密な探索で追いかけた原稿用紙で4000枚を優に超える労作である。これは非常に体系的な仕事だが、彼がその役目を自分の生涯の思考の場所として考えるに至った背景には、それなりの経緯がある。
戦争中にわたしは軍国少年だった。鬼畜米英と教えられてきたわけです。ところが、戦争に負けてしまってなにをどう考えたらいいのかわかんない。15歳の時でしたけれども、アメリカ映画の輸入が再開された。それで、とにかく真っ先に飛んでいきましたよ。自分が戦った相手を知りたかったわけです。映画は『春の序曲』っていう、ディアナ・ダービンが主演している映画でした。その昔『オーケストラの少女』っていう映画に出ていた少女でした。まあ、他愛もないB級音楽映画です。
田舎から少女がニューヨークに出てきて、兄を訪ねる。その兄がある家の執事をしていて、その少女がその家の若旦那と結ばれる、というもうまことに他愛のないシンデレラ物語なんだけれども、私にはその作品が非常に感動的だった。どうしてか。彼女がニューヨークに来て、地下鉄を降りて街を歩くと、彼女を見た通りがかりの男たちがにっこり笑って振り返る。この時、ニッコリ振り返るっていうのに非常にわたしはショックを受けたわけです。日本でもきれいな娘がいれば振り返るっていうことはあるんだけれども、それは真面目な男の子のやることじゃない。不良のやることに決まっている、不良であれば必ず卑猥ないやらしい目付きをするに決まっている。と、これがまあ日本では常識なわけです。
ところが、健全にニッコリ振り返る文化がある。このことを知って、わたしは愕然としましたね。その時、わたしはこれはやっぱり原子爆弾に負けたとか、飛行機の生産量で負けたとかいうのじゃない、文化の次元で負けたんだという実感を持ちましたね。女性を振り返るときにニッコリ笑う方が高級な文化だと思ったわけです。それから夢中で映画を見はじめた。
佐藤忠男は昭和5(1930)年の生まれ、この本の中の登場人物からいえば、野坂昭如や木滑良久などと同年齢である。出身地は新潟県新潟市。家業は船具商で漁師相手に網やロープを売っていた。地元の高等小学校を卒業後、昭和20年の3月に予科練に入隊、9月除隊復員。その後、国鉄職員を養成する新潟鉄道教習所に入学、昭和24年に中等部を卒業、神奈川県の国鉄大船電力区に電気手として勤務。数カ月で人員整理に遭い退職。帰郷後、電電公社の電話修理工として7年間勤務。このあいだに新潟市立工業高校定時制に学ぶ。昭和32年に投稿を続けていた『映画評論』に認められ上京、同誌編集部員となる。そのあと、映画評論家として一本立ちした。
これが佐藤忠男の六〇年代、昭和35年を迎えるまでの簡単な略歴である。最終学歴が地方都市の定時制高校卒業という評論家にしては非常に変わった学歴の持ち主だ。家業は船具商であったというから貧しくて進学できなかったのではないらしい。進学はできなかったのではなく、拒否したのだった。昭和17年のことである。
小学校を卒業したときに中学校の試験を受けにいきましたらね、そこの校長が排外的愛国主義者とでもいうんですか、試験の日の朝、いきなり胸に大きい番号札をかけて、講堂に整列させられた。そして校長がいきなり、明治天皇の御製を3つばかり朗読したんです。それでこちらは明治天皇の御製が試験の問題になるんだろうと思って、それを暗記しようとしていたんですが、そうしたらそういうことでもなくて、なぜか落とされていましてね。その翌年、小学校高等科にいって、あらためて中学校の受験者のための補修授業に出ましたら、そこに受験の裏に通じていらっしゃる先生がいらして、秘密情報を教えてくださった。私が受験した学校の校長先生は、非常な愛国者であってペーパーテストよりも人格を重んじる、と。で、人格をどうやって測るかというと、いきなり明治天皇の御製を朗読して、その時、頭をさげるのを忘れている生徒を周りに配置した先生たちに番号札でチェックさせるんだ、だから注意しなくてはいけないと。その話を聞いた時、私はもう進学なんかするもんかと思った。
その中学だけじゃなくて進学ということ自体に、非常な拒絶反応をもちました。それで少年飛行兵になったわけですが、なったらすぐ、戦争が終わっちゃってね。それから鉄工所で働いたり、鉄道教習所にいったり、まあ、変則的な学歴をたどって。いちおう、定時制高校までいってるわけだから学歴がないわけじゃないんだけれど、とにかく、学歴に対しての複雑な拒否反応を抱えながら生きていたわけです。映画の方に進んだのは多分にそれと関係がありますね。つまり、学歴と関係なしにやれる知的な仕事に対する憧れっていうんですか、文化的な仕事に対する憧れ。当時、映画の脚本を書いている人には学歴のない人がけっこういたので、まあ脚本家にでもなれないかなあと思っていたわけです。
ディアナ・ダービンのニッコリ笑っている場面から始まる戦後日本を舞台にした佐藤忠男自身の日本男児版シンデレラ物語は五〇年代の日本映画黄金時代と、ほぼ重ね合わせることができる。彼の場合は映画が好きという前に、とにかく本が好きで、まだ十代の鉄道教習所時代、週末になるとただで利用できる夜行列車で上京し、神田の古本屋街でリュックサックいっぱいの古本を買いあさり、残りの時間で映画を見たり、演劇を楽しんだりした。そして、日曜の深夜に上野発の新潟に戻る夜行列車に乗り、寝て帰るという気楽なスケジュールである。
鉄道教習所は国鉄職員の養成のためにつくられた学校だが、入学と同時に学費を取られるのではなく、逆に最低限の資格での俸給が支給されるのである。寮生活で、住むところも食事も心配がない、自由な時間はたっぷりある。これが佐藤忠男の映画評論への出発点であった。卒業後、神奈川の大船保線区への就職を希望したのも、松竹撮影所が近い、という無邪気な理由だった。彼はここを、人員整理の員数合わせでクビになり、新潟に戻るのである。
新潟では、電電公社で電話機の修理をやりながら膨大な量の本を読み、映画を観賞する。そして、映画雑誌への読者からの投稿という形で文章を書きはじめる。内容は、もちろん映画に関するものなのだが、たとえば、邦画各社のメロドラマの映画のなかでヒロインや登場人物が劇中で何回泣くか、回数を比較して、いくらお涙ちょうだい映画とはいえ主役の女優が12回も泣くのは泣かせすぎじゃないかとコキ下ろしてみせたりして、業界内評論家では気がつかないような視点を設定して原稿を書いて、送っている。上京するまでの彼の主たる投稿先は『映画評論』『キネマ旬報』『思想の科学』などであったが、とくにそのころ、雑誌『思想の科学』を主宰していた哲学者・鶴見俊輔は、新潟から送られてくる佐藤の原稿を面白がり、佐藤宛てに便箋10枚に及ぶ激励の手紙を書いている。
戦後の言論や表現の自由が高らかに謳われる文化環境のなかで、民衆のなかからの知識人の出現を渇望していた鶴見俊輔たちがみんなで待ちこがれていたのは、佐藤のような存在だった。働きながら得た学歴しか持たず、しかも戦後の民主主義教育の薫育を受けており、現実に労働者であり、教養的には大学卒の若い知識人に遜色ない批評家、そういう存在こそ、新時代を象徴する人間だったのである。「わたしは、ま、戦後民主主義の子だったわけだ」と、佐藤忠男はいう。あいだに一息、「ま」と入るのが多少の照れがある証しだろう。
昭和30年前後ですが、その当時労働者出身の評論家っていうのは戦後民主主義ジャーナリズムの待望久しい存在だったわけですよ。そういう存在が現れるべきだという、なんとはない雰囲気が、知的サークルのなかにはハッキリあった。進歩的文化人たちはそういう人材の出現を望んでいたわけです。そして、わたしはまさにそういう人間として文章を発表しはじめたわけです。どうもこの人は田舎で、工場で働きながら文章を書いているらしい。それがなかなか読めるものを書いている、っていうわけです。彼らにとってわたしは希望の星だった。上京したのは1957年、昭和32年の正月からでした。
そのころのわたしが周囲に認められた最初のきっかけになった仕事は通俗映画を論じることでした。チャンバラ映画とか、ヤクザ映画、メロドラマ、ドタバタ喜劇、こういう従来、文化としては低俗なものとして顧みられなかったものについて大真面目な論文を書くという、これは鶴見さんや南博さんなど大学の先生たちが余技で始めたことだったんですが、そういうことだったら俺の方がうまくやれるぞ、というような感じがありまして。わたしは、それに必死で取り組んで、一応の形にしていった。これもいってみれば、反学歴的発想だったわけだ。つまり、教養ある人々にとっての知識の問題じゃなくって、大衆の哲学といいますかね。感情とか、情念について論ずる人間として、まず存在した。
当時の日本の映画産業は、五社体制と呼ばれる邦画五社、松竹、東宝、東映、日活、大映の寡占状態が続いていた。それぞれが自分のところの製作部で撮影した新作を自分の配給システムに基づいて系列の封切館に配給して観客を呼ぶ、というやり方である。そうした映画館はだいたい、街の一番の繁華街にあり、映画好きはその場所に足を運んで、どんな映画にしようか、誰の映画を見ようかと思案するのだった。五社はそれぞれ作品のテイストも出演俳優も監督も違い、いわば、企業が製作者から出演者まで総がかえで、他社作品との差別化を図ったのである。佐藤が新潟の映画館で日本映画を見たこの時期は、これ以後何年かかけて日本映画のメインストリームが徐々に壊滅していく過程の、いわば序章の部分であった。それでは黄金時代の日本映画は文化としてどんな状況にあり、それが表現しようとしたテーマとはいったい、なんだったのだろうか。
映画全盛期の日本映画の主流はやはり、基本的にはヒューマニズムだろうと思いますよ。まあ、大ざっぱにいうと小津安二郎は『パンチ』創刊の前年に亡くなっているけれども、小津安二郎を神棚に祀って、その周りに黒澤明とか、木下恵介とか今井正とかいるわけだけれども、どちらもまあ、ヒューマニズムで大きくくくることができる。そしてそのヒューマニズムというのは、日本は貧しい国だという認識に基づいていて、つまり貧しさからどう脱却するかということだったわけです。『貧しくとも気高く生きましょう』というのが小津安二郎だったとすれば、木下恵介は『貧しくとも助け合っていこう』、黒澤明は『貧しくても心の中の誇りを失うな』、今井正の場合はそれが『貧しいからこそ、やはり社会主義的な方向を目指さなくちゃいけないんだ』と。みんなそれぞれ、答えは微妙に違うんだけれども、基本立脚点は同じで、底辺に流れているものはヒューマニズムだったと思いますね。
例えば、戦後のヒューマニズムを一本の作品で代表させるとすれば、木下恵介の『二十四の瞳』だと思うのですが、あれは、まあ、昭和28年で五〇年代の前半の作品ですが、戦後民主主義の真っ盛りにひとつの頂点をなした映画だと思うんです。あの作品の中でいっていることは、要するに『日本人はみんな戦争の被害者なんだから、泣きながら助け合っていこうよ』っていうようなことがテーマでしたからね。そして、そのヒューマニズムの集大成ともいうべき作品が黒澤明の『赤ひげ』だったのでしょうね。
東映でヤクザ映画が量産されるようになるのも昭和38年からなんですが、ヤクザ映画っていうのは貧しさよりもなによりも男の意地だ、そっちの方が大事なんだみたいな考え方です。五〇年代末から六〇年代初めにかけての時代の風潮として、映画の中で威勢のいいものがもてはやされた。東映の任侠時代劇とかヤクザ映画、日活の石原裕次郎。この頃の威勢のよさを一番で代表したのが石原裕次郎ですよ。
ヒューマニズムは基本的に偽善性をともないやすいもので、それから考えると戦後のヒューマニズムというのは偽善とはいわないまでも、弱さは持っていましたね。助け合い、助け合いっていってるけど、それはなんか腑抜けなんじゃないか。涙ぐんで助け合ってなんてことで自分をごまかしちゃいけない。そんなこといってるあいだに、本当の敵を見失っているんじゃないか。これは大島渚が出してきたテーマなのですが、増村保造とか今村昌平とかもみんなそうです。今村昌平の場合はちょっとニュアンスが違っていて、一見貧しいように見えるけれども実は、けっこうしたたかなんだ、大衆とはそんないじらしいもんじゃないんだってことですね。いずれにしても、彼らは一様にアグレッシブに、攻撃的にヒューマニズムの偽善性をついたという点がありますね。
わたしとちがって彼らはみんな、一流大学の秀才なんだけどね。大学を卒業して役人になったり、大企業に勤めたり、官界や財界にっていうんじゃなくて、だけれども映画界に入ってきたということは、つまり大衆文化の世界に入ってきたということは彼らもみんな、既成のヒエラルキーに対する一種の反抗的なものを持っていた、ということだと思うんですよ。たとえば大島なんかの撮る映画はどれも学生運動に対する強いシンパシーを表現していて、きちんとできあがっている秩序に対しての若者の反抗の意義というものを認めた。わたしはわたしで、そういう秩序からこぼれ落ちてしまいそうな下層の民衆の文化というものの存在理由を主張していたわけです。その辺で共同戦線を張るような形になった。
映画評論家としての佐藤忠男の最初の仕事は、日本の下層の大衆の文化を映画を通して見直すという作業だった。そして、次の時代。映画が斜陽産業化しはじめるなかで大島渚や今村昌平らの若い世代が作る映画作品を、映画評論家として真っ先に支持したのも佐藤忠男だった。それらの新人監督の作品の持つ社会意識を研ぎ澄ましたようなメッセージ性は、佐藤が社会に出てからハッキリと敵として眼前に視認することになる学歴優先の社会的風潮や保守的な権威主義に対する憎しみとピッタリと焦点が重なりあったのである。
六〇年安保闘争は、いまはあまり評判よくないけれども、大衆デモクラシーのひとつのピークだったわけです。戦後の民主主義っていうのもいまは評判悪いけれども、とにかく初めは輝く理想だったわけですよ。なにしろわたしを中学に入れなかった校長みたいのが、否定されたのが戦後の民主主義ですからね。だから戦後の民主主義っていうのはわれわれの希望であって、その希望というのは大衆運動によって徐々に実現していった。その大衆運動によって、社会改革が行われるっていうことのピークが六〇年安保だった。しかし、六〇年安保が過ぎるとみんな、潮が引いたようにスーッと大人しくなってしまったんです。それで高度成長の時代に入るんだけれども、その時代のその無風の時代への苛立ちがありましたね。
大島渚の『日本の夜と霧』、篠田正浩の『乾いた湖』、増村保造の『偽大学生』、蔵原惟繕の『我らの時代』、これらの作品はなんらかの形で映画のなかに政治とか学生運動とかテロリズムといったものを持ち込んで、時代は閉塞しているがたぶんこれを打開するのは学生運動であろうとか、たぶんそれらは失敗するであろうとかいう予感を秘めた作品だったわけです。これは大島渚がひとつのピークとして形をつけたということでしょうが、その背景にはそれまで作り上げてきたヒューマニズムではどうも儲からなくなってしまったという事情があった。なぜ、儲からなくなってしまったかといえば、裕次郎や東映の任侠ヤクザの威勢のよさにかなわないっていうことですよ。それで、大島渚が「偽善を叩け!」みたいな威勢のいいこといってるからそれに乗っかってみたけれども、でもそれはやっぱり、商売にならなかった。大島渚、篠田正浩、吉田喜重、みんなだいたい同じ路線をとってました。まあ、2、3本はヒットしたけれどもあとは全部総崩れでした。それで、暫く松竹としては混乱がつづいて、松竹がついに本来のヒューマニズム路線に帰ることに成功したのが、昭和44年の『男はつらいよ』だったのです。けれどもそのころにはもう、映画界全体が猛烈に萎縮してしまっていて、なんとか生き延びるメドがついた、というような状態でした。
六〇年代を通じて、戦後日本映画はヒューマニズムではどうにも儲からない、どうにもならない状態になってしまった。松竹の沈滞がそのことを証明している。そのかわりに威勢のいいものでヤクザ映画一本に絞った東映は一番、調子よかったんだけれども、それは映画界全体がぐんぐん衰退していくなかでの敗北戦のしんがりを受け持つことができた、というに過ぎなかった。全体的に見ると、花開いていったわけじゃないんです。
その新幹線とオリンピックの勢いのよさを、端的に反映したのがやっぱり日活の裕次郎とそのダイアモンド路線、つまり小林旭と宍戸錠ぐらいかな、商売になったのは。みんな威勢よく、カツコよくてね、そして映画そのもののストーリーはアメリカのアクションものの焼き直しが多くて、要するにアメリカナイズされて、日本もアメリカのように豊かになるんだという路線を突っ走っていったんですけれどね。それも、うまくいかなかったですね。うまくいかなかった理由というのは、別に個々の作品の問題じゃなくて映画界全体の衰退の問題でしたね。それぞれに必死で頑張ったんだけれども、大きな流れはどうしようもなかった。で、その流れというのはテレビのなかに流れ込んでいったわけです。
貧しさに裏打ちされたヒューマニズムから、画面から生きるエネルギーが放射されているような映画への移行は、当時の映画を見ることを楽しみにしていた大衆の心情そのものを代弁していた。そういう元気な映画を見終わると観客たちは映写終了後の爽快感を楽しみながら、映画のヒーローになったような気分で肩で風を切って歩き、「よし、俺も頑張って働くぞ!」と、心に決めた。ひとりひとりのなかには給料が倍になっていくような感覚はなかったが、この時代に現実に日本の社会で起こっていたのは、なんとなくみんな、生活が楽になっていくということだった。つまり日本の大衆は、総体的に見て、徐々に貧しさから脱却しようとしていた。こうした社会状況のなかで、テレビの受信台数が昭和30年代後半に右肩上がりで急増していったことについてはすでに述べたが、それはまるで383頁の表にあるような映画人口の急激な減少と相関しているようでさえある。
テレビの娯楽は最初、アメリカから輸入されたドラマが放送の中心だった。力道山のプロレスやボクシング中継のような番組が茶の間を興奮させたこともあったし、素朴な形式の番組作りはすでに行われており、アメリカ的な豊かな生活を伝えたアメリカのドラマは豊かさのイメージだけを視聴者に残して、すぐに国産のテレビドラマにとって代わられる。この時代の大衆文化のなかでテレビはなにを代表していたのか。佐藤忠男はテレビの正体をホームドラマだという。ちょうど、TBSが脚本・向田邦子、演出・久世光彦、そして森繁久弥の主演で『七人の孫』の放送を開始するのも昭和39年のことである。そして、『ありがとう』『肝っ玉かあさん』『時間ですよ』などが立てつづけに作られるのである。
テレビは、それまで映画の観客としては傍流であった中年女性層を中心的な視聴者として獲得していった。これが、テレビが当時やった最大のことでしょうね。つまり、それまで中年女性層っていうのは、映画の一部の女性メロドラマを支える力にはなっていたのだけれども、映画の観客の主流ではなかった。映画の観客の主流というのはやっぱり男の子で、だからチャンバラや威勢のいいのがよかったんです。それで、中年女性というのは映画のなかでは褒め讃えられることのもっとも少ない階層でありまして、つまり、中年の女性がステキだなどという筋書きの映画は昔はなかった。
中年の女性は常に脇役であって、たまに主役になると母モノの母でしかない。世にもみじめったらしい存在でね、苦労し抜いて雑巾みたいになって、ボロきれのようになってそれでも子供のために尽くし抜いたと。それを見て若者が泣くというのが母モノだったのです。たとえば、それまでの日本のホームドラマのピークを成しているのが小津安二郎の一連の作品だとすると、これは娘が嫁にいって終わりになるわけです。嫁にいくまでが女の人生で、嫁にいったら後は知らないよ、っていうのが小津安二郎の映画なわけです。
ところが、テレビのホームドラマっていうのは女が結婚してから後の人生を描いているのです。これが、テレビが映画を駆逐した大きな理由でしょうね。例えば、橋田寿賀子さんなんかは映画の脚本家出身でそこでは売れなくて、テレビに移ってから自分の世界を確立するわけですけれども、要するに、40歳になっても50歳になってもそれこそ女の人生はそこから始まるんだと。それで、若いものをアゴで使って、そして場面ごとに着物を着替えて。亭主には大した権威はなくて、おかみさんを中心にして家族が、いや近隣社会が回転していくというそういう世界をつくり出したわけです。そして、社会全体の趨勢としてはこちらの方が主流だったんでしょうね。
このころからテレビと映画の映像メディアとしての文化の棲み分けが始まる。しかし、棲み分けというと共存共栄のようで、なんとなく平和なイメージがあるが実態としては、映画館に通っていた人々が徐々に足を遠ざけ、テレビしか見なくなって既成の映画産業が衰亡していく過程である。要するに、映画にとっては踏んだり蹴ったりの状況なのである。まず、一番最初に映画館から姿を消したのはオバサマたち、つづいて大人の男たちである。
六〇年代を通じての映画のモチーフの変化というと、ひとつはセックスをテーマにしたものが出てきたということ、そして任侠モノが流行ったということ。このふたつを率直にいってしまえば、つまりエロと暴力ですよ。エロと暴力というのは一見、商売になるように思うけれども主流にはなれない。それが珍しいもののあいだはヒットしますけれど、それによって失うものも多いわけです。つまり、穏健な大衆は映画から去っていったのです。
中年以上の大人の女性たちはエロと暴力は絶対に好まない。次に、高度成長を支えて働き続けたサラリーマンたち。ひとつは住宅事情もあって郊外に住むようになって、まあ、映画館が遠くなって映画を見にいく環境じゃなくなっちゃったということがあるでしょうね。で、働いている大人は映画を見なくなってしまった。それでもまだ、若い女は残っていたわけです。でも、彼女たちもやっぱりエロと暴力は好まないから、外国映画のロマンチックなロードショーしか見ないわけです。だから、都心のロードショー館が女性でいっぱいという時代がありましたよ。それで、日本映画をやっているところは殺伐たる男のコしかいない、そういう状況のなかでピンク映画が登場して全体の傾向に拍車をかけるわけです。ピンク映画になると、もううらぶれた男しかいない。要するに、受験浪人であったり、出稼ぎ労働者であったり、たとえば武智鉄二が作って松竹が上映した『紅閨夢』とか『白日夢』とか。『黒い雪』を買ったのは日活だったけれども、場末の映画館でかけるのなら許せるっていう映画を都心の大劇場で公開するっていうようになってきました。出てきて評判になった時にはワーッと観客が押し寄せるんだけれども、すぐに保守的な人々が映画を見なくなっていく、その副作用がありましたね。
映画に出てくる人間は悲痛なうらぶれた、そして悲しそうな顔ばかりしている。ところが、テレビを見るとおかみさんを中心にして非常に楽しい隣近所の生活があって、親戚とも仲よくつき合ってて、おかみさんは全然抑圧されてなくて。映画では女は犯されてばかりいるんだけれども、テレビでは一族郎党の支配者になって権力者になって、楽しい人生を送っている。
テレビは社会のポジティブな面を描く、映画は社会のネガティブな面を描くというふうに、文化の棲み分けができあがっていった。これが六〇年代に起こったことだったんです。
映画は次第に文化の中の少数派になっていき、巨大な拘束力を持っていた五社協定は崩壊を始める。さまざまのタブーが打ち破られ、「ヒーローは死なない」「ヌードはない」といったこれまでの映画の常識は簡単に覆されていく。その一方で、娯楽性を排除してメッセージ性を最優先することで、製作者たちが作りたいものを作るという、劇場上映を前提にして作られる娯楽映画からは考えられなかった映画作りの地平が切り開かれていくのである。この動きを支えたのは、既成の映画産業からはみ出した若い映像作家たちだった。若者による変革の火の手が、ここでもあがったわけだが、これは映画だけ、日本だけに限らない世界的な傾向でもあった。
中国の文化大革命は、いま考えてみると、非常に愚かな革命で、当時でも単なる動乱なのではないかと疑った人もいました。単純に支持した人も数多いけども。なぜなら当時、若者が世界を変えるというそれまであまりなかった現象が世界的規模で起こりはじめていた。そのクライマックスになるのが文化大革命であろうと、まあ、いまから考えれば大人に利用された運動なわけですが。文化大革命はわたしにとっても無関心ではいられなかった。文化大革命の一面の主張に学歴否定ということがありましてね。それは私にとっても非常に直接的に興味のあるテーマでしたね。もうひとつ、労働者と知識人の差をなくするという主張。これは収入の差というよりも、労働者も大学にいくべきであり大学生も労働するべきであるという運動だったわけです。これは私にとっては非常に興味深い問題提起だった。
私も毛沢東が指導する革命っていうのは、それ自体で矛盾だし、そして必然的に、知識人に労働させるっていうのは懲罰の意味を含んでくるのではないか。知識人が喜んで労働するのならばいいけれども、だいたい懲罰の意味を持ってくる。これは日本の戦争中にもあったことだったわけです。そういうものは決してうまくいくものじゃない。従って、これはきっと失敗するだろう。しかし、失敗するだろうけれどもその問題提起自体は非常に大きな意味を持っているんじゃないかと、当時考えましたね。学歴の問題も知識人と労働者の問題も含めて、その問題提起に無関心でいられなかった最大の理由というのは、やっぱりこの日本社会の高度成長というもののいき着く先は徹底した浪費社会である、このままいったら地球の資源は枯渇するという危機意識でしたね。資源問題とか環境問題とかが、ようやく意識され始めた時期ですよ。共産主義が正しいかどうかより、いまのような単なる競争的な浪費社会というのはコントロールされるべきなんだと。
当時、わたしがしたのは、みんなが肉体労働を否定して大地から資源を略奪していけば、しばらくは浪費的な競争社会というのも成立は可能だろうが、大地は無限に資源を持っているわけではないから限界がある。だったら誰かが労働しなければならない。労働するのであれば、なるべく平等にやった方がいい、学歴や思想に関係なく平等に肉体労働をするべきだ、そういう主張だったんです。
このころ、日本の論壇で流行った言葉に〈国際分業〉という考え方があった。財界人などがよく言っていたことで、先進国は工業を発展させ、農業は東南アジアが受け持てばいい、というような能天気な意見である。佐藤忠男は、この地球規模で国家を高学歴国家と低学歴国家に分断していくような考え方を本能的に嫌悪した。労働も学問もひとりの人間がやればいいんだ、若いうちに労働しておいて、少しお金でも貯めてから勉強すればいいじゃないか、というのが彼がこのころ、さかんに主張したことだった。このころの彼は映画評論だけではなく、学歴無用論を主張して、造反の時代の思想を語る教育評論家としても活躍している。
思えば、その学歴無用論というのはわたし自身の個人的な人生に対する、自分の生き方を合理化する論法でもあったんです。でも、造反の時代にはわたしがそんなことをいっても、みんなが割と耳を傾けてくれた。ま、みんなが耳を傾けたわけではないけれども、せせら笑う人は少なかった。少なくとも、そういう話を講演してもらいたいという大学やなんかはけっこうあったんです。若者文化を支持すると、わたしはそれをかなり本気でいっていたんです。その背景には、『平凡パンチ』が若者文化というものを全面的に打ち出したということがあった。それまで、若者文化っていうのは純情可憐な文化っていうのはありましたけれども、若者文化が特別な意味を持ち始めたのはやはり、『平凡パンチ』からだったでしょうね。
『平凡パンチ』が日本社会全体の動きのなかでの若者文化総体をサポートしてたかどうかは疑わしいんだけれども、たとえば、大島たちが考えていた学生造反の効果と『パンチ』が謳いあげていたカウンター・カルチャー、それからわたしはわたしで勝手に個人的文化大革命みたいなことをしきりに口にしてたわけだけれども、そういうもの全部が交錯して存在していたことは事実ですね。
学生運動が次第に高揚していくなかで、しかも傍らで既成の映画界が大衆的な商業基盤を失っていくなかで登場するのが、政治的なメッセージを全面に押し立てた前衛映画である。
大島渚の『日本の夜と霧』は過激派学生の討論会を実況中継したような映画だった。娯楽映画の範疇からは逸脱してしまっているが、この手法は学生たちが自主製作する映画に受け継がれ、激しい政治討論がスクリーンで繰り広げられる政治映画が作られはじめる。また、昭和40年に武智鉄二の『黒い雪』などが警視庁に猥褻図画陳列罪で摘発される。そして、同じ年、若松孝二の『壁の中の秘事』がベルリン映画祭に出品され、日本国内で大変な話題を呼ぶ。それというのも、『壁の中の秘事』がいわゆるピンク映画で、五社が作ったものではなかったからである。日本の映画界では五社で作るもの以外は、ランクが一段下という考え方があった。しかも、ピンク映画は卑しげな場末の映画館で上映される作品である。日本国内ではベルリン映画祭がどうして日本のピンク映画をコンぺティション作品として受け入れたのか、という囂々とした非難が起こるが、そのことも含めて若松孝二は男の株をあげたのである。映画祭の主催者側にとっては、出品された映画がいいものであればなんの問題もなく、それが日本国内でピンク映画として扱われていてもナンの問題もなかったというわけだ。
若松孝二はいまでは非常に社会的に認められた存在になっているけれども、要するにこの時はピンク映画ではないかと。このピンク映画を芸術として認めるかどうかということが、文化の正面に出てきたというのが、この間題の本質でしょうね。これは立派な芸術なんだ、ということが外国からやってきてしまったっていうことは、これが世界に連動する動きだったということでしょうね。
そして、武智鉄二が『黒い雪』で告発された時に、彼はこれは反米映画なんだという論陣を張るわけです。『黒い雪』というのは、要するにアメリカ軍基地における日本の女たちの物語なんですけれどもね。それで日本の女たちは、アメリカ兵によってもっぱら犯される。そして、裸になって逃げ回るという映画なわけです。武智は、日本の女が犯されてアメリカ兵が犯すというこの関係がつまり、日本とアメリカの関係を象徴しているんだと。だから、この映画は反米思想の表現なんだ、自分の映画は反米思想だから弾圧されたんだと、世論に訴えたんです。それで、この問題はいみじくもカウンター・カルチャーっていうものの持っていた性格の多重性を表していたんだと思いますね。反道徳的な世間の良識に対する反発であると同時に、反米的な政治的反対運動でもある。それは若松孝二なんかにもっとも鋭く表れていた傾向でしたね。彼はそれを、自分のテーマとして深めていくわけです。
観客動員数の減少、映画会社の大幅収益減、そういう状況のなかで邦画五社は製作本数を大幅に削減するなどの合理化政策を打ち出して難局を乗り切ろうとする。要するに、いま流行の言葉でいえば、リストラである。リストラの実態が人員整理であることはいまも昔も変わらない。劇場から、映画会社から撮影所から大量の失業者が溢れかえる。そして、その古い映画界から弾き出された人たちがなにをやったかというと、場末のうらぶれた映画館のためにピンク映画を作りはじめるのである。
既成の映画産業から追い出された人々は、もちろん、生き延びるためにピンク映画を作ったわけですが、儲けるためになりふりかまわずになんでもやるんだ、というのではなかった。もちろん、どぎついことをやっているんだけれども、と同時にそこにはみ出しものの反感といいますかね、そういうものが政治的なテーマの形をとって盛り込まれるわけです。例えば、若松孝二は学歴でいえば農業高校中退なんですよ。そして、そういう人はこれまで映画監督にはなれなかったんです。その時代に映画監督をやっていた人っていうのは、ものすごく映画がもてはやされた時代に撮影所に入ってきた超エリートばかりだった。
映画っていうのは戦後日本のヒューマニズムの啓蒙の先端にいる、非常に名誉ある職業だった。特に、黒澤明がベネチア映画祭で『羅生門』でグランプリを取ってから、日本の文化を代表する非常に名誉あるものだったわけですから。一流大学の秀才たちがどんどん入ってきて、そうでない人間は入れなくなってしまったんです。若松孝二なんかは、本来この世代としては映画監督になれるはずがなかった。しかし、そういう人間だからこそいえる社会に対する反感というのがあってね。これをテーマとしては政治的に、映像としては非常にエロチックに表現したことで、彼の作るものは単に敗北の歌ではなくなっていったわけだ。彼は自分の状況を逆手に取って、それまで秀才たちがいえなかった毒舌を吐いた。秀才たちっていうのは、啓蒙的なことはいうけれども毒舌にはならない。ところが、若松孝二は「おまえらの偽善性は俺がよく知ってるぞ!」って、そういう発言で、それなりにひとつの気迫があるわけです。それがつまり、カウンター・カルチャーとしてのエネルギーだった。
映画産業の衰退は既成の映画の秩序を崩壊させた。旧態依然とした映画は、相変わらず作られつづけ、衰退と崩壊を加速させたが、皮肉なことにそのなかで映画は次々と新しい試みに挑戦する人々を生み出し、前衛化するなかで、活性化していったのである。そして、この状況のなかで、同じように既成の枠にとらわれずに活動を続けてきたアングラ映画運動が大きな流れとして浮上してくるのである。
これは16ミリとか8ミリという小型カメラを使って作る映画から出発した人々の運動である。代表的な存在に大林宣彦がある。彼らは映画会社の何百倍という入社試験の関門を突破できるような成績優秀な人々ではなかったが、いわゆるカメラを買ったり、高いフィルム代もなんとか捻りだしてしまえる豊かな家庭で育った、育ちのいい、センスのいい趣味人だった。
彼らは遊びとして映画を作っていたわけです。そういう人たちがかなりいて、彼らはけっこう食えていたわけです。なぜ食えていたかというと、テレビのコマーシャルというものが始まったんです。彼らはテレビのコマーシャルの開拓者でもあるわけですよ。テレビのコマーシャルで食っていける、そういう人たちが表現としての映画を作り始めた。これがアングラ映画なんです。非常に趣味的な、徹底的に趣味的な映画ですよ。しかし、これも新しい、映画というものの幅を広げる動きでした。
映画産業自体が縮小していったおかげで、そこからはみ出した部分がいろいろと出てきた。それらの勢力が、アートシアター、ATGに結集するわけです。それまで、映画会社を辞めた連中はみんな、独立プロを作って、元いた会社にフィルムを買ってもらうというようなことをやっていたわけですけれど。みんなでアートシアターに集まろうということになるわけですよ。このアートシアターというのは極端な低予算映画で、それまでの常識の2割、3割の予算で映画を作ったわけです。当然、スタッフは報酬は最低限しか貰わない。もし、万一儲かったらお金貰うけど、そうでなけばお金、貰わないみたいな映画作りですよ。ATGの第一作が『絞死刑』っていう大島渚の映画で。出演者は、確か半分が素人でね。素人っていうか、脚本家の石堂淑朗だったり、批評家の松田政男だったり、そういうのとプロの役者とそれから一般から募集したアマチュアだったり、それをごちゃまぜにして、そして全員に10万円ずつ払うだけで作ったんです。とにかく、1000万円、いまからじゃとても信じられない話ですが、とにかく純粋に作りたい映画を作るんだっていって、集まったんです。
アートシアターっていうのは客席せいぜい200席ぐらいで、そういう映画館が全国に10ぐらいあれば、そして、1000万円ぐらいで映画を作ってそれが1ヶ月ぐらいロードショーに掛けられれば何とかなるんじゃないか、というところから始まった。予算の半分はアートシアターが出す、半分はプロダクションが出す。ただし、アートシアターは口は出さない。もちろん、発言権がないわけじゃないけれども、企画がいったん決まったら監督が自由に作っていい。これで、低予算の芸術映画というのが作られることになるわけですが、これによってアートシアターが残した業績というのは非常に偉大なものがありましたね。
佐藤忠男はアートシアターの相談役としてこの運動に深く関わることになる。予算は少ないが誰からも干渉されない自由な映画作りができる。このことで、映画の現状に不満を抱いていた少壮の映画監督たちが次々と名乗りをあげる。前出、大島渚の『絞死刑』を皮切りに、篠田正浩の『心中天網島』、岡本喜八『肉弾』と傑作が次々と生まれた。同時に既成の映画人以外の人々をどんどん起用した。例えば、記録映画の監督、羽仁進が寺山修司脚本の『初恋・地獄篇』を作ったり、1996年に「絵の中のぼくの村 Villager of Dreams」で第46回ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞する東陽一(現在は京都造形芸術大学芸術学部映画学科客員教授)が新人監督として起用されたのもこのころからのことである。そして、なによりもATGの映画作りを活性化させたのは、当時、演劇運動の最先端に立って猛烈なスピードで走りつづけていた寺山修司の参加だった。
寺山修司が『書を捨てよ町へ出よう』を作ったのは昭和46年のことである。
なんといっても寺山修司がこのATGで映画を作るようになったということが大きなことでした。産業として衰退することで、逆に使える人材の幅は非常に広くなりましたね。前衛的な演劇人なんてのはそれまで、既成の映画会社を相手にしていなかったわけです。あれは商売なんだ芸術運動じゃないんだということで、映画を敬遠していた人たちが、記録映画とか演劇畑とかから、ATGを通じて映画製作に入った。これが非常に大きなことでした。
そして、そのことによって映画は非常に奔放なものになっていった。つまり、いままで表現できなかったことが表現できるようになった。具体的にいうと、寺山修司なんかが特にそうなんだけれども映画を作るっていうことがひとつの遊び、非常に高度な遊びとして成り立ちました。商売とか芸術とかっていうよりは、若者の遊び、質の高い遊びっていうのかな。
だいたい、寺山修司の演劇自体がよく、はみ出し者集まれってかけ声かけるような、まず、自分が号令して家出少年集まれってなことでね。実際に彼は上野あたりまで迎えにいったらしいけれどね、いうところは『家出のすすめ』みたいなことでしょ。そうするとそれにつられて本当に家出してくる人間がいるわけだ。そうすると警察から電話がかかって来たりするわけだ。あなたを頼って東京に家出してきたのを補導してるんだっていうことでね。
そうやって集まった人々を、まあ、ウソかホントかわからないけれど、もちろん、我と思わん才能のある人間が集まったんだと思うけれども。なかには、そういう家出少年のレベルまで含めて、とにかく社会からはみ出している人間を集めた。あるいは、はみ出していると意識している人間を集めた。映画だけじゃなくて、芝居の方でも寺山修司がやったことは、芸術とか娯楽とかっていう範疇を超えたことをやっていたんだと思う。やっぱり、新しい時代の動きの先端にいたっていうことだと思うんだけれど、要するに楽しい遊びとして文化を再建するという考え方だったと思いますよ。
既成の文化の大きな枠組みが崩れて、映画の一部、演劇から始まってさまざまのものが映画に流れ込んでくる。映画っていうのがいろんな方法で作れるようになる。これは産業として衰えていった反面のプラスでした。プラスではあるけれども、しかし、社会の主流に取ってかわるほどの力はなかった。突出しているけれども、その遊びをつづけようと思ったら、必死になって頑張らねばならなかった。これはアートシアターの映画についていっていたんですが、たぶん、『平凡パンチ』もこれと似た状況だったんじゃないでしょうか。
佐藤忠男も映画評論家として『平凡パンチ』の映画欄に定期的に登場して、最新の封切映画を俎上にあげて料理している。『パンチ』への初出は第3号、昭和39年5月25日号で、パンチ・ジャーナルのスペースを使って『社外タレントは使うな!〜異色作で勝負する日活の悩み〜』という記事を作り、ここに佐藤忠男のコメントを載せている。
この事件は、日活専属の俳優たちが結成している“俳優クラブ”(委員長・葉山良二)が、日活宛てに抗議文を提出したというもので、最近作られる日活作品には専属の俳優がほとんど顔を見せない、このままでいったら生活できない、と苦衷を訴えたものである。
いま思えば、この問題も全体に衰弱していく映画産業そのものの現状を象徴していて、会社、監督、売れない俳優、売れっ子俳優とそれぞれ言い分がちがい、浅丘ルリ子や宍戸錠などのスターは「われわれは商品なんだから、ゴタクを並べる前に演技力を磨くべきだ」(宍戸錠)とか「キャストを決めるのは監督さん、仕方がないことだと思います」(浅丘)といっている。実はやり玉に挙がっているのは今村昌平とか中平康という映画監督たちだった。中平はこれについて「なぜ僕のところに直接いいに来ないのか。使わないというより使えないから使わないのだ」と強烈なことをいう。これに対し、佐藤はこの騒動の根元にひそむ映画産業の病根を摘出してみせて、こういう。
かんぐれば売れない役者がひとりで騒いでいるとみられないこともない。だが、問題は会社のやり方にあるようだ。日活はアクションとか純愛とかの路線ばやりで同じスターが同じ映画ばかりをつくっているから、異色作といわれるものが作れないのは当然で、監督のやり方は正しい。田坂具隆や久松静児などを追い出して、アクションを撮る監督ばかりにした会社のやり方が責められるべきだ。
佐藤忠男が『パンチ』に寄せた映画批評のなかにはこんなものもある。それは『パンチ』第169号、昭和42年8月21日号に載せられた東宝映画『日本の一番長い日』について書かれたもので、映画は戦争を終わらせるために当時の指導者たちがどんな苦労をしたか、というようなことを一生懸命に描いているのだが、佐藤はこの映画を「つまらない大作、批判精神に欠ける」と一刀両断、次のように書く。
お金も手間もかかってるというが、できも悪いし、わたしには、こんな映画を作る動機がわからない。
昭和二十年八月十五日、日本が負けたことを認めるために、天皇(松本幸四郎)や鈴木首相(笠智衆)や阿南陸相(三船敏郎)はじめ、政界や軍部のトップ・クラスの人たちが、まじめに努力したという物語。
戦争をはじめるときにも指導層の一員だったような人たちが、終わらせるときに誠実だったからといってどうなのだ。もうどうにも勝てないから降伏しようという派と、三百万人死なせたんだからついでに……という派の争いではないか。彼らを批判的に描くのならともかく、感心して見てなどいられるか。
当時の一般国民の姿が出てこないが、戦争が終わったのは支配者たちが努力したからじゃなくて、国民が三百万人も死んだからだ。
この映画は、終戦時に軍国少年であった佐藤が直接的に立脚している体験に関わるテーマを無造作にいじくり回したものであった。戦争が終わって22年、そろそろ、人々のあいだでの戦争体験が風化しはじめ、美化して語ろうとする人間も出てくる。日本は負けてないとか、こうすれば日本は勝ったと戦術的なことをあれこれと書きちらす考え方はいまも一部のジャーナリズムのなかに勢力としてあるが、それもこの六〇年代の末、なんでもありの時代に既成の戦後民主主義が次第に行きづまるプロセスで表面化してきたものであった。
『平凡パンチ』について、佐藤忠男はさらに続ける。
『パンチ』っていうのは非常にユニークな雑誌でしたね。平凡出版からはその前に『週刊平凡』という雑誌がすでに出ていたわけですが、わたしは『週刊平凡』と『平凡パンチ』のあいだには非常に大きな断層があると思います。
昭和30年代の『週刊平凡』というのはそれこそ、貧しさの上に立脚した雑誌でした。貧しさの上にっていうと語弊があるかも知れないけれど、つまり、これもヒューマニズムですよ。本作りの底辺に、貧しいものたちが、弱いものたちが助け合って生きていきましょうっていう考え方がありましたね。積極的にスローガンとして掲げたかどうかは別として、『貧しいものほど純真である、正直者である』というような考え方があった。それは同時に日本映画でも表現されていることなんだけれども。
『週刊平凡』は、みんな貧しいから趣味もそんなに高尚じゃない、でも正直で率直でそれがいいんだっていう大衆文化の肯定の上に成り立っていた。そして、スターを尊敬していたんですよ。スターは大衆のサクセスストーリーの頂点にいる存在で、みんなの努力目標だった。戦前の大衆雑誌というのは、経済的成功者を讃えていたんですよ。講談社文化っていうんですかね。これもやっぱりサクセスストーリーが中心だったけれども、出世した人が偉いと、企業家とか政治家とか。ところが『週刊平凡』はスターが偉いんだといった。そして、スターというのは庶民的善良さのシンボルだった。そのスターを押し立てて温かく見守りながら、みんなで向上していこう、これが『週刊平凡』の本質だったと私は思います。
これに対して、『平凡パンチ』っていうのはちょっとスタンスが違ってきている。印象としての一番の大きな違いは表紙なんですが、誰でもお金の使い方に気を配ればなんとかなるんだということをいいだした。まず、服装ですよ。ポーズとか肌の色は日に焼けて黒い方がいいとか、価値観を導入したわけです。
『パンチ』は要するにそこで、『週刊平凡』から一歩進んで、はっきりと大衆の生活のなかにモダニズムを持ち込もうとしたんでしょうね。モダニズムというのはやはり、スターが偉いんだというような権威主義とは違うものでしょうね。そして、それの本質は若さそれ自体に価値があるっていう考え方だった。若さとはなにかといえば、遊ぶ能力でしょうね。遊ぶにはお金が必要なんだけれども、そのお金は少し豊かになってきた。実際には読者がそんなに遊べるほどのお金は持っていなかったかも知れないけれど、遊びのイメージっていうのは強力に打ち出していました。それこそ寺山修司が貧乏人だって家出したって遊べるんだというイデオロギーを打ち出したのと似たようなところがありました。遊びのポーズの良さ、それ自体が価値なんだ、そういう考え方が姿を現してきたんでしょうね。
佐藤忠男自身にとってのこの時代は、評論家として関わっていた映画というジャンルが全面崩壊をしはじめたこともあって、地盤が揺らぐような日々であったらしい。それを、彼は「とにかく映画界にしがみついていればなんとか幸せになれると思ってたのが、とてもそんな生やさしいもんじゃないということがわかってきた」惨憺たる時代であったという。既成の秩序や権威はどんどん崩れ去っていったが、逆に次から次へと新しい可能性が見えてきた時代、否応なく自分が何かをやらねばいけないと思えた時代であったともいう。
そして、佐藤は学園紛争のさなかに、記録映画の監督、小川紳介から民事訴訟の申立人になってくれないかという話を持ち込まれる。小川紳介は国学院大学の映画研究部出身の映像作家で、昭和41年に文部省の通信教育問題を取り上げて、『青年の海』というドキュメンタリーを作り上げた新人だった。当時、高崎経済大学の学園闘争を記録した『圧殺の森』や成田空港の反対闘争を追跡した『三里塚・辺田部落』で知られるようになっていた。小川がいうには、国学院大学の映画部が新宿の騒乱事件のときに騒乱のドキュメントを作ろうとデモの行列やデモ隊と警官隊との衝突の光景などを撮影した。そしたら、後から警察が大学の部室にやってきて、現像したフィルムを全部持っていってしまったということなのである。そして、学生がどうにかしてくれと小川紳介に泣きついてきたのだ。
警察としては、石を投げたヤツが映っていないか、証拠に使いたいということだったんだろうけれども。わたしはかくべつ小川紳介と仲良しだというわけじゃなかったのですが、『裁判所に申し立てをして、フィルムを取り返してやりたい。訴訟の準備その他、弁護士の手配とかはこちらでやるから、代表申立人になってほしい』といわれたんです。いまの、テレビ局が撮影したビデオを放送前に誰かに見せていいかというような問題のはしりですよ。これは最高裁までいって、けっきょく勝つんですが、わたしはこの時、表現の自由や言論の自由は新聞記者だけにあるのではなく、国民全部にあるんだと主張した。当時はデモでは新聞記者とかマスコミの人間だけは腕章をして、取材ができた。他の人は排除されていたんです。しかし自分が見てきて、隣の人に話すのも報道なんだ、だから学生が撮影したフィルムを持ってっちゃったらいけないじゃないか、これがわたしの主張だった。この問題では『表現の自由を守る映画人連合』という実態があるのかないのかわからないような組織をつくった。わたしは元々、政治的な人間ではないんだけれども、[平凡パンチの時代]においてわたしが公的な立場で行動した唯一最高の機会はそれでしたね。この時が、本当に自分が戦後民主主義の理念のために行動しているんだっていう、民衆運動が権力の横暴を阻止するんだということを考えた時期でした。
しかし、そこでわたしが日本に革命が起こるかも知れないとかそういうふうに考えていたか、というとそういうことではなかった。過激派の学生たちや急進的な知識人はわたしを味方と考えていたようですが。敗戦後の一時期など、知識層や学生の一部は本当に革命間近しと思っていたわけですよ。ところがわたしは、工場で働いていましたからね、労働者の世界といっても実は庶民の世界なわけです。
庶民の世界にはマルキシズムっていうのは全然浸透していないんですよ。もちろん、労働組合は存在する。そして、組合の指導部は共産党、ないしは社会党である。しかしそれは、選挙の時に一番熱心にやるのはあいつらだから、あいつらがやりたいのだからやらせておけと、俺はやる気はないということで、少なくともわたしが過ごしてきた普通の庶民労働者の世界はそんなものでした。
東京に出てきた頃、私がときどき過激な発言をすると、やっぱり佐藤さんは工場では労働組合の活動家だったにちがいない。そして、いまの発言は党の指示があっていっているのに違いないと思われた。そういうことをあとから聞いて、非常にびっくりしましたね。革命間近しという雰囲気はあくまで、知識人と学生のあいだに強烈にあったもので、一般の庶民のなかにはなかった。それでも、[平凡パンチの時代]は変動ただならぬ、面白い時代だったですよ。
いまのように世界的規模でお先真っ暗という時代じゃない、世の中はどんどん良くなっていくんじゃないかと、良くなっていく証拠にはどんどん古い権威が崩れていっているではないかと思えた。そして、学生運動が完全に過激化して、文化大革命も惨憺たる結果に終わって、その最終の行き着く先は連合赤軍事件で、あそこには理想のカケラもなかったんだということになってしまった。われわれの世代はみんながっくりしたわけです。重大な問題提起がそこにはあると思っていたのが、単なる暴力の内ゲバというものに矯小化されてしまった。われわれの世代はそこでいきづまってしまったのかもしれない。それらのことはいまとなってはみんな忘れてしまいたい禍々しいことになってしまったんだけど、あれはあれで非常に時代的な意味を持って表れた。それの意味を忘れてしまうわけにはいかないんですよ。その時の方法はまちがっていたし、バカげた途方もないものだった。危機意識があって、いろんな試みが試行錯誤的に行われて、そしてそれはだいたい失敗に終わりましたよ。でも、どこに問題があったかということは遺産として残りましたね。
この時代の文化を支えた場所はやはり、新宿であったと、佐藤忠男もいう。新宿を中心に、早稲田小劇場、そして、青山の草月会館、車で走れば10分もかからないこの狭い地域のなかに、毎日、なにか面白いことが起こった。佐藤は、その時代の鮮烈に脳裏に焼き付いている最も強烈な記憶の光景として昭和42年10月、東京青山の草月ホールで寺山修司が行った劇団・天井桟敷の第1回公演『青森県のせむし男』の一場面を挙げる。
舞台の上にはね、せむし、これは差別用語になってしまうかな。それに、おかま。要するに常識からはみ出した人間をいっぱい整列させましてね。すばらしい音楽を流して、横尾忠則に舞台装置を作らせて、文字どおり、フットライトを浴びせて。これがすばらしいんですよ。観客は呆然として見とれている。なんていうか、身体障害者っていうのは、それまで無視するのが正しいというような考え方があった。ジロジロ見ちゃいけない。たしかに、好奇心でジロジロ見ることはよくないかも知れないけれど、それで無視するんであればそっちの方がもっと差別じゃないか、そういうことですね。みんな素晴らしいじゃないか、寺山がいいたかったことはそういうことです。
昔、芝居っていうものは、神社の境内なんかでやっていて、障害者がいっぱい見せ物にされていたわけですよ。それは確かに非人道的なことです。そういう状態というのはわたしの子供の頃の記憶にいっぱいあるわけですから。そして、そういうものは非人道的なこととして葬り去られた。社会から消えていった。それじゃあ、その間、福祉が前進したかといえば、なんか保護して知らん顔してればいいんだ、というようなことだったんです。寺山がやったことは文字どおり、障害者が脚光を浴びて、観客がそれに見とれるという、無視するんじゃなくてある意味で賛美する。これを寺山は陽気な発想によって自分の芸術としてやったわけです。新しい文化は遊びなんだ、世間から差別されてる人間がこの遊びに積極的に参加したらいい。そうすれば、差別を逆にはね返すことができる、そういう積極的なアイディアを提出したんです。
そして、[平凡パンチの時代]を代表する映画を一本取り上げるとすれば、それはやっぱり、大島渚が作った『新宿泥棒日記』ということになるでしょうね。これは新宿の街にやたらとフーテンが溢れていた頃でね、唐十郎の状況劇場が花園神社で芝居やってる場面と、大規模な学生のデモ隊のうねるような人波と、その中で登場する主人公がイカレた男です。当時わたしも、フーテンたちを見るために新宿にいったりした。そうしたら本当にイカれた連中がいて、自動車を蹴飛ばしたりつまらないイタズラをして警察から追いかけ回されて、『あいたっ』とか『やられたっ』とかうれしそうに浮かれている。その浮かれていた様子を思い出してみると、社会全体がなんか浮かれていてお祭り騒ぎだったなあと思いますね。
昭和44(1969)年にATG系で上映された『新宿泥棒日記』は、『ぴあシネマクラブ・邦画篇』には次のように紹介されている。
70年安保闘争期の新宿を舞台に、本を万引する青年と少女が、騒乱を予言し待望して歌うシャーマンのような狂言回しに導かれて、エクスタシーを求めてさまよい歩く。そして、新宿騒乱の起こった夜、ついに絶頂に達する。幻想と現実の世界が交錯した難解な内容であり、現代には果たして真のエクスタシーは存在するのか、という問題が随所に追求されている。登場人物が多数、実名で登場し、手持ちカメラを駆使したドキュメンタリー的な映像が劇映画的な虚構性を剥ぎ取り、別の〈真の〉虚構を打ち立てようとする作者の熱意が伝わってくる。
この作品について主演した横尾忠則は『自伝』のなかでこんなふうに述べる。
撮影はオールロケで新宿を中心に連日行われた。時には徹夜で朝方まで続いた。(略)何んだか薄暗くて、どう考えても面白そうな映画が撮れているような気がしなかった。またいつもの大島監督の映画とは違っているように思えた。確かに僕は主役で出番は多いが、本当の主役は別にいるような気がしてきた。それは人間ではなく、例えば新宿の街であったり、一九六〇年代という時代であったり、あるいは映画それ自体なのではないかと。
僕の目には大島監督は映画を創っているのか壊しているのかよくわからなかったが、恐らくその両方であったのだろう。虚構の中でドキュメントやハプニング、それにぼくという実像と虚像の両方の観念の解体を試みようとしていたのではなかったのだろうか。いずれにしてもこの映画はそれ自体が自立したひとつの『現実』であったことだけは確かだ。
そして、さまざまの営みが繰り広げられ、人々がただならぬ変動のなかをくぐり抜けたあと、その時代を必死で生きようとした人々の心のなかにそれぞれ違った、敗北の思いを残して六〇年代は終わるのである。この時代の終わりに映画はさらに衰退の道程をたどりつづけ、昭和44年には日活の経営が悪化、日活は会社再建のために翌年の11月から公然とロマンポルノの製作を始める。この月は奇しくも、三島由紀夫が自裁した月でもある。また、その1年後、46年の11月に大映が映画製作を中止。翌月、倒産する。
佐藤忠男は映画産業の激しい変遷に立ち会うなかで、いつしか日本映画批評の第一人者になっていく。七〇年代に入ってからのことだが、外務省や国際交流基金から日本映画をアジアの諸国に紹介する講演にいってくれないか、という話が持ち込まれる。彼はその役割を果たしながら、旅した先々の国でそれぞれ、頼み込んでその国の人々が作った映画を見て歩くのである。
それらの国の人々が作った映画を見ているうちに、わたしは日本映画を外国に持っていって宣伝すること以上に、それらの国の映画を日本に持ってきて上映することの方が大事だ、と思い始めた。第三世界と先進諸国のあいだのコミュニケーションをなんとか成り立たせたい。わたしは一介の映画批評家に過ぎないから、わたしが六〇年代、[平凡パンチの時代]に夢見ていたことにいくらかでも貢献できるとすればそういうことであると思いはじめたわけです。
あの頃、ゴダールは『第三世界の映画が、ハリウッドを包囲する』といった。これは、いまから考えれば愛すべき言い方なんだけれども。わたしはそれを実践してるつもりなんです。別にハリウッドを敵視しているわけじゃないけれども、やはり世界の浪費文明の先端をいっているのは、モノを壊せば壊すほど痛快であるというハリウッド映画だと思いますよ。それに対して、もっと素朴なものを大切にしなければいけないということを表現している映画がある。わたしは自分のこの作業が、平和にまどろんでいるアジアの映画を浪費社会に引きずり出してしまうのかも知れないと考えることもある。いいことか悪いことかわかりません。でも、わたしがやるというとそういうことしかない。
それでまあ、わたしはいまや、アジア映画の権威のようになってしまったんだけれど、やっぱり、低学歴派ってところがありますよ。世界の文化を比較すれば、日本は高学歴社会、東南アジアは低学歴社会ですよ。で、どうしても低学歴社会ってものが大事なんだと、高学歴社会は低学歴社会が持っているものを学ばなければいけないんだと、いまだに思っているわけです。これはどうも、わたしの個人的な怨念がいまでも生きているみたいですね。
アジアの映画については、わたしにもこんな思い出がある。
ちょうど、このマガジンハウス編の『平凡パンチの時代』を取材・執筆していた1996年ごろ、中国の奥地を旅行することに熱中していて(中国揚子江流域原産の米、桜、梅、竹といった植物の日本への伝播帰化の話をノンフィクションとして書きあげるつもりで取材していたのだが、ほかの仕事が忙しくて途中でほうりだしてそのままになってしまっている)、雲南省をなんども訪ねている。
雲南の奥地に大理という町があるのだが(渋澤龍彦が晩年に書いた『高丘親王航海記』の舞台になった葺海のほとりにある)、これはほんとうに小さな町なのだが、いまどうなったかわからないが、この町の繁華街の真ん中に小さな、古ぼけた映画館があった。
わたしはひとり旅で気楽な取材旅行だったのだが、日曜日の夕方だったと思う。ちょうど時間があって、細かいところまでは覚えていないのだが、でき心のような感じでひまつぶしに映画館に入って、ほかの人たちに混じって映画を見た。小さな映画館は観客でいっぱいだった。もちろん中国人ばかりである。子供も大人もそれこそ食い入るようにスクリーンをみつめつづけて、拍手し、歓声を上げていた。
映画は朝鮮戦争を舞台にしたノンフィクションらしく、古いモノクロフィルムの戦争画像がつづいて、戦いの有様が報じられるなかに、アメリカ軍のジェット戦闘機とソ連製のミグ戦闘機が空中戦をくり広げる特撮のカラー映像が挟みこまれていて、アメリカの戦闘機のミニチュアがそこだけパートカラーで撮影されていて白い煙を上げて墜落していくのである。稚拙な技術で明らかにオモチャの戦闘機と判る、わたしたちの目から見たらとても奇妙な、理屈もなにもない映画だった。もちろん、ナレーションも早口の中国語で興奮したしゃべりがつづいているから、なにをいっているのかほとんどわらないのだが、観客はこのカラーの部分のアメリカの戦闘機が打ち落とされる場面が出てくるたびに熱狂して、声を上げ、拍手していた。客席は大人もけっこういたが、やはり子供が多かったと思う。それで、わたしはその大理の映画館の暗闇のなかで、確かに自分が子供のころ、日曜日毎に通った三軒茶屋の東映の時代劇を上映していた映画館のなかにたちこめていた興奮と熱狂を、「ああ、たしかにこんな具合だった」と思い出していたのである。これと同じような経験を2002年の夏にも、ミャンマー、シャン州のタウンジーという町でも経験している。
多分、いまも同じではないかと思う。あらゆるアジアの国々の鄙びた田舎町や都市の盛り場の片隅にある映画館で、今夜もたくさんの映画が上映されているだろう。そして、その映画館の人いきれやタバコの煙が立ちこめるなかの銀幕に映し出される物語世界で、ヒーローやヒロインが繰り広げるその物語のなりゆきを数多くの人々が息をのんで見守っているはずである。
その、ほの暗く懐かしい場所は50年前の昭和の日本で少年のわたしたちが映画を見終わったあと、自分のその先の人生を夢想した場所でもある。そして、そこではたぶん、いまでも何人ものアジアの映画少年たちが、手に汗握って映画のクライマックスに感動し、自分の人生のこの先で起こることへの予感に心を震わせているはずである。
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?