詩集『熱帯』 バンコックの雑踏にて
1990年代の東南アジアの国々は高度経済成長の最中にあり、町も人々の行き交いも生業も活気にあふれていた。わたしはしばらくぶりの休暇、一人旅の無聊を、街中にあふれるエネルギーが異邦人の心を慰めてくれた。
バンコクの雑踏にて
バンコクへようこそスチュワーデスたちがにこやかに笑いかけて
ドアのハッチが開いてむあっとたちこめた熱い空気がながれこむ
飛行機から降り立ったその場所から始まるかまびすしい街の雑音
乗継いだ国内便の空港の待合室で居合わせた男たちはだれもみな
おれは悪くない、頼むから信用してくれよと言いたげな
怪しいたたずまいでせっぱ詰まった顔をして大声で笑い
両手を広げて立ち上がり煙草を吸い歩きまわり携帯電話をかけて
自分たちが乗り継いでいく飛行機の到着遅延の情報にいらだって
なかなか訪れない出発の時間に腹を立てていた ここは
東南アジアで随一のチャンス・カンパニー 微笑の国タイランド
ワイルドライスの国 昨年度の経済成長率は8・2%のJカーブ
パッポンのディスコで言葉のわからないふりをしたポン引きが
ふらりと迷い込んだ日本人旅行者にビール一本五千パーツとふっかける
ひとりでかってに盛り場に遊びにいかないでくださいよって
あれほど言ったじゃないですか とガイドにお目玉をくらう
発展途上国のあか抜けない目まぐるしいやり方で国民総生産は
国民全員のストレスと苛立ちをそのままチャートに移し換えて
右肩上がりのうなぎ登りのJカーブ 一人一人の幸福も不幸も
歩きまわり話し合い 努力し調整し毎日がなんとか過ぎていく
どさくさまぎれのスピードが万能の時代 確かにアイムシュア
昔は日本もそうだった日本こそ世界一のチャンス・カンパニー
おれたちがまだ子供だった頃 親父も学校の先生もおばさんも
毎日血走った顔をして殺気だって 仕事をしていたものだった
生きていることは正しい
生きていくことは正しい
生きる意志こそが正義だ
生活は豊かでなければならない そのころの人々はそのことを
さまざまの台詞とさまざまの場を借りて
まるでそれが二十世紀の人類の共通した意志であるかのように
そのこと一つだけを 時代の推移のなかでくり返し語り続けた
俺たちだった
必死で生きる人々のありさまを見つめながらおれはその街角で
昔の東京の記憶に重ね合せ旅愁に心を満たし路傍に立ち尽くす
バンコクで暮らす人々の表情を美しいとも醜いともいえぬまま
人波に晒され流されながらたじろぎ旅の最中の経験を記録する
意志がなければ 旅人のいかなる心情も意味のないものとして
黙殺されるべきである意味のないことに心を動かしてもし方あるまい
そう考えながら 腕時計で時刻を確認していまという時を思う
そして異国の言葉を小鳥がさえずるように喋りつづける者たち
男たちや女たちに おれ自身もすこし苛立ちながら
もしかしてそうではないのかもしれない
それは美醜とは関わりのないありのまま
生成りの場所での物語でしかないのかもしれないと 思うのだ
たぶん美しく生きるなんていうことはアジアではまだまだ先の
問題 かなわぬ夢 近未来的な伝説 おとぎ話 幻なのだろう
美しくなるのも醜くなるのもこの先 彼らが経験する
場面の問題なのだろう未来のまだ訪れない時間のなか
うまくやったり失敗したりしながら 心を変形させて
だれも皆が苦しみ年老い、それでも懸命に生きていくのだろう
雑踏のなかでであった 日本人の男の目から見てもふり返らずに
いられないほど美しかったタイの娘たち あなたがたのおれには
とても分からぬままの 熱帯の王国と夢と謎 男たちに愛されて
荒々しい腕に抱かれて 愛の言葉に心を乱しながら
熱い吐息を吐きかけて幾日の夜を過ごすのだろうか
ああ 異国の街頭ですれ違った日に焼けて汗くさく
エネルギーにみちみちて会った人々よ あなた方が
この先くり広げられる物語に残念ながら立ち会う時間はない
おれはまたいずれは遠い国へと立ち去る宿命の異邦人だから
あなたがたのこの先の物語の結末 美しかれと秘かに祈ろう
この国に 美しいことが幸せである時代が訪れますようにと
両手を合わせて ひめやかに祈ろう
ここから、密林に囲まれた隠れ家リゾートへの旅がはじまる。
つづきます。