本の記憶。 ルソー『懺悔録』
ルソーの岩波文庫は『懺悔録』上・中・下巻、『民約論』、『孤独な散歩者の夢想』、五冊の文庫本を持っている。どの本も変色して焦げ茶色になりボロボロ。
わたしは小学校低学年のころから本が大好きだったのだが、本格的に大人の本を読み始めたきっかけというのがあった。中学2年生、14歳のときである。実は読書の記憶と学校の教師に殴られた記憶が重なっている一瞬がある。このころのわたしは相当の悪ガキで、それまでも小学校時代など、日常的に先生には怒られて殴られていたらしいが(忘れてしまっている)、わたしが子どものころ、最後に殴られたのは中学校2年の時で、殴ったのはクラスの担任で牧村先生という、定年まじかの国語教師だった。
そのときに何があったかというと、授業時間に教科書のなかに隠して柴田錬三郎の『眠狂四郎』を読んでいるのを見つけられて、立たされ、殴られた。このころのオレの国語の成績はクラスで一番、二番だったから牧村先生としても自慢の生徒だったはずだから、先生は[コイツは授業をバカにしていい気になっている]と思い、よほど腹が立ったのではないか。
わたしはこのころ、世田谷の上馬というところに住んでいたのだが、家の近所にあった貸本屋の常連で、山田風太郎とか柴田錬三郎とか、山手樹一郎、吉川英治なんていう作家たちの書いた時代小説や剣豪小説が大好きでそういう類いの小説を片っ端から読破している、その途中だったのだ。そのとき先生に殴られ、読んでいた本を没収され、あとから職員室に呼び出されて、先生から「こんな本ばかり読んでいないでもっとチャンとした本を読め」とお説教され、本を返してくれた。
家では母親が本が好きで、彼女はわたしがどんな本でも本を読んでいたら、勉強していると思ってくれるような寛容な人だった。その母親に先生に殴られたことはいわなかったが、「ちゃんとした本を読めっていわれた」という話をしたのである。そしたら「ユキちゃん、こういう本を読みなさい」といって焦げ茶色に変色してしまった本を何冊も持ってきた。それは本当にちゃんとした本だった。
そのころのわたしの家は貧しく、昔、旅館だったという古い建物の八畳一間を借間してそこで、家族五人、父と母と子供三人で身を寄せ合うようにして暮らしていたのだが、そういう貧窮のなかでも、母が行李のなかにしまって絶対に手放そうとしない、日に焼けて表紙が変色してしまった岩波文庫が二十冊ほどあったのである。
文庫本は夏目漱石やトルストイ、ジイド、メリメ、徳冨蘆花ほか、雑多な作家たちの作品だったのだが、これは昭和14年に中支(中国大陸)で戦死した母の兄(つまりわたしの伯父さん)の蔵書で、大切な遺品だった。伯父の戦死の状況はほとんど分からないが、腹部を撃たれ苦しんで死んだと聞かされている。四人姉弟のただ一人の男の子で家の大事な跡継ぎ、東京高等師範(のちの東京教育大学、現在の筑波大学)出身の英才だった。子供のころのわたしはオッチョコチョイでいかれポンチ、いつまでたってもオネショばかりしている最悪のガキだったが、母親は息子の不出来をいつも嘆いていて、どうしてこの子はこんななのだろうと考えていたのだろうが、ちゃんと勉強なぞしないのに学校の成績だけはよかったから、たぶん、母親にとってわたしはその戦死した伯父の生まれ変わりのはずだったのだ。
牧村先生がどんな本を読めといったかまでは覚えていないが、これと前後して、同じクラスのわたしが好きだった女の子が「堀辰雄と立原道造が好き」と言っているのを小耳に挟んで、図書館で堀辰雄の作品集と立原道造の詩集を借りて読んで、そのロマンチックにたちまち取り憑かれた。急にそういう文学書を読み始めたわたしに、「読んでご覧なさい」といって行李のなかから出してくれたのが、伯父の遺品の二十冊の岩波文庫だった。そのなかの一冊がルソーの『懺悔録』の上巻だったのである。中・下巻はなかった。
母が呉れた岩波文庫で一番最初に夢中になって読んだのが『上田敏詩抄』という詩集だった。上田敏は本邦の初翻訳詩集である『海潮音』の著者だ。詩集が読みやすかったこともあったが、この詩集を読んで、作品のなかのカール・ブッセの「山のあなたの空遠く「幸」住むと人のいふ」(『山のあなた』)とか、ポール・ヴェルレーヌの「秋の日のビオロンのため息の身にしみてひたぶるにうら悲し」(『落葉』)とか、レミ・ドゥ・グルモンの「シモオヌ、そなたの髪の毛の森にはよほどの不思議が籠もっている」(『髪』)なんていうフレーズにすっかりやられてしまう。
これがわたしと詩との本格的な遭遇で、このあと、たちまち島崎藤村とか土井晩翠、与謝野鉄幹、神原有明、薄田泣菫、北原白秋、三木露風と明治の詩人たちの世界に迷い込んで、漢和中辞典を片手に文語体表現の雅語にまみれて、将来は詩人になりたいという大望を抱いて暮らすようになる。これが中学二年生、十四歳のときの出来事である。
わたしが持っている岩波文庫の『孤独な散歩者の夢想』は昭和三十五年、『民約論』は昭和二十四年の本、『懺悔録』は上巻が昭和八年、中巻が昭和三十六年、下巻は昭和二十三年刊行されたもの。年代物揃い。本のなかには19640211という書き込みがある。オリンピックの年、高校一年生だった。
詩集ばかり読んでいてもしょうがないかも知れないと思いはじめたのは、高校生になってから誰かから「詩人では生活していけないぞ、小説家ならお金が儲けられる」といわれたのがきっかけだった。それから、いわゆる[世界文学]を読み始めるのである。『懺悔録』を読む前に、『三銃士』や『モンテクリスト伯』、『チボー家の人々』等を読んだ記憶がある。
『懺悔録』の上巻は高校一年生の春に読み始めた。中巻は新刊本を渋谷の大盛堂かなにかで買って、下巻は玉電中里の駅前の古本屋で10円で売っているのを見つけて買った。
J・J・ルソーというのは18世紀フランスの思想家・哲学者でそれまでヨーロッパの文明が培ってきた【自由】とか【博愛】とか【民主】というような理念と思想を具体的な形で文章にした人のひとりなのだが、高校生のわたしにはそんなことまではわからない。
『懺悔録』はルソーの生きた人生を記録した、いわゆる告白型の自伝小説なのだが、これを読んで、わたしは大いに感激し、夏休みの宿題の読書感想文を書いたら、学校の作文コンクールで金賞をもらった。あとにも先にもなにかを書いて賞をもらったのはこれ一回きりなのだが、この賞を取ったことで、無謀にももの書き・小説家になりたいと思いはじめ、本格的に文章の世界にのめり込んでいって、今日に至っているのである。
わたしの大学時代の専門はヨーロッパ中世史なのだが、このジャンルを専攻したことにもルソーとこの本は関係していると思う。ルソーは文化は生活の上に成り立っていると考えたが、これは社会が経済を土台にして成立しているという、後にマルクスなどが考えることの基本的な思想のプロトタイプ(原型)だったのだと思う。
わたしの場合、そのあと物書きになったおかげで、中途半端にヨーロッパのことを知っている歴史オタクみたいになってしまった。いまから勉強して取り返すつもりだ。
しかし、この『懺悔録』のわたしに与えた影響はまことに大きく、自分の記憶だが、高校を卒業するときにクラスで順番に立ち上がって将来の夢を言っていったのだが、そのときわたしは[ボクは自分の考えるとおりに自由に生きていきたいと思っています]と生意気なことをいったのだった。先生はそれを苦虫を噛みつぶしたような顔をして聞いていたが、[本当にそういう生き方ができるといいね]と言ってくれた。
あとからのことを考えるとだが、わたしはこのあと、希望の大学に入り、こういうところに就職したいなと考えていたような出版社に就職し、こういう女と結婚したいなと思っていたような嫁さんをもらい、いま、いちおう〈作家〉の看板を掲げて、原稿に好きなことを書き散らしている。
[運命]とか[宿命]とか、人間の個人的な力ではどうしようもない、人生の流れというものがあると思うのだが、わたしにとってその水路は非常に幸運なモノで、それを作ってくれたのが無念の思いのなか敵弾に倒れて死んだ伯父さんの残していった岩波文庫の一冊の『懺悔録』だったのである。この本にはたぶん、伯父さんの生きることへの未練と死の苦悩がこもっている。それを14歳のオレが引き継いだのだ。こういう思念の力がたぶんいい本の持っている《底力》だと思う。わたしもいつかそういう力に溢れた本が書きたい。
ルソーの『懺悔録』はほかの伯父さんが残した岩波文庫といっしょに[沈黙図書館]のご本尊のような扱いで、文庫本のズラリと並ぶ一角に、きたない焦げ茶色のかたまりになって同列の棚に紙背を並べている。
いま思えば、14歳のときに『懺悔録』に出会ったのは非常な幸運だったが、悪影響もあった。ルソーは相当にクセの強い、協調性のない人間だったみたいだが、オレもおなじで人生について露悪的であったり、自分の思ったように生きなければ気が済まないわがままなヤツだったりしているのは、このルソーの『懺悔録』の影響ではないかと思う。また、自分の人生がザンゲだらけの失敗ばかりだった責任の一部もルソーの教えてくれた〈自由な生き方〉にあるのかも知れない。
いずれにしても、人生を七十年以上生き過ごしてしまって、いまさらなにをいっても追いつかない。人生は〝懺悔〟のかたまりである。
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