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詩集『青春』 第一章 作品01〜03

 ナオミ01立ち 粒子 

【作品01】 八月の風

恋人よ
八月の風はあまいか
八月の光は視界にきらめくのか
教えてくれなくてもいい

いや 教えてくれ
わたしたちがついに訪れなかった
八月の海の光をあなたは知っているか

八月の日の光は熱い
わたしたち自身が太陽でありたいと願い
ついに発光体ですらありえなかった
わたしたちの皮膚に
八月の日の光はみじめに熱い

野望は潰え
情念は虚しく枯れて

人よ
八月の海の伝説について語れ
海辺で語られなかった多くの言葉と
なされなかった多くの仕草について

その時 わたしは恐れるべきであるのか
別の情熱と
別の愛に満ちて
いつかふたたび
八月の海の波打ち際を
はてしなく
歩いていくことがあるのであれば

●一九七一年七月
………………………

【作品02】 岬にて   

八月の日の光が、この小さな入り江、めぐりあいにふさわしい明るい海に満ちあふれ、膚に熱く、まぶしかった。満ち潮が置き忘れていった名も知れぬ海藻が、すえた海のにおいを漂わせて、茶色く乾涸らびていた。
やけ焦げたように熱い、砂浜の波打ち際、黒く濡れた砂づたいに磯に向けて、二人は歩いた。二人とも、日に焼けて、麦わら帽子がよく似合った。彼らは、波の音ではっきりとは聞き取れぬ言葉を交わし、うれしそうに笑った。白く泡だった波が打ちよせ、もつれて続く四つの足跡を消していった。
砂浜が終わり、磯まで来ると、弓なりに湾曲した海岸線の向こうに切り立った断崖が黒く、威厳に満ちた姿を現した。原初、何億年も前の造山活動で巨大な岩のかたまりを組み合わせて作り出されたこの絶壁は、この地方では投身自殺の名所として、また、この群青色に扇子を広げた形になる海原に臨む随一の景観の地として有名だった。はじめに、その岬の突端まで行ってみようと言い出したのは、美砂子の方だった。
磯から岬を登る細い坂道を少し上がったところで、彼女はダダをこねるようにしばらくしゃがみ込んで動かなかった。むせるように立ちこめる草いきれのなかで一休みすると、やがて二人は後になり、先になって急な坂道を上り始めた。彼らは大きな息をつきながら、それでもへたってしまわず、しばらく登り続けた。
やがてとうとう彼女の方が音を上げて地面にペタンと座りこんでしまった。海から優しく吹き上げる冷ややかな微風が汗ばんだ膚に気持ちよかった。
「あっ、見えたよ。早くおいで」
先に、休まずに登っていった彼が、大声で美砂子を呼んだ。牛の背骨のように走る岬の尾根道に出ると、急に左右に展望が開けた。弓なりに曲がりくねった砂浜のむこうに松林に囲まれて漁師たちの住む家々、そして白く小さな漁港が見えた。朝方の出漁を休んだ船がともづなを下ろしていた。漁村のはずれにかれらが泊まり合わせた銀色のトタン屋根の宿屋が午後の真っ直ぐな光を受けて、輝いていた。
二人は尾根道をなにか大声で叫ぶようにはしゃぎながら走り、先を争って岬の突端にたどり着いた。その場に立ちつくして、青く広がる海を見ながら
「なんだか、気持ちが悪いわね」
美砂子がそう言った。
海は凪いでいた。潮が引きはじめ深緑の海面は底の深いこのフィヨルドのなかで、透明の壺にたまった油のように淀んで、鈍く輝いていた。
「潮の流れがゴチャゴチャに入り組んでいるからあんなふうになるんだよ」
と彼が言った。
「ふうん、潮がゴチャゴチャになってるの」
切り立った断崖をこわごわ見下ろしながら、彼女が言った。
「じゃあ、今、あの海に身投げしたら完全に成功するわね」
「そりゃあ、そうだろうな」
彼は崖道の傍らの朽ちかかった木のベンチに腰掛けてそう言った。
「崖から落っこちていく時、、どんな気持ちかしら」
そう言いながら、彼女がその隣に座った。
「そりゃあ、死ぬんだから死ぬ時の気持ちがするよ」
「死ぬ時の気持ちってどんなかしら、痛いかしら」
「そりゃあ、痛いさ。痛くて、息が詰まるんじゃないか」
「目が回るわね」
「うん」
「ねえ、死にたいと思ったこと、ある?」
「そりゃ、あるさ」
「みんなあるかしら、あたしもあるもの」
「みんなあるだろうね」
彼が言った。                           「ここで身投げする人って、どんな気持ちでここまで登って来るのかしら。ここで、いままでずいぶんたくさんの人が、身投げをしたんですってね」
彼女は、勢いの強くなってきた海風にそよいだ前髪を白い指でまとめて耳の間にはさんだ。
「ここで、潮が引きはじめた時に身を投げると、絶対に死体が浮かんでこないんだってさ。潮の流れからはずれて、海の底に沈んだままになるか、流されて湾の外に出ていって、黒潮に乗って、太平洋を骨だけになるまでぐるぐる回り続けるか、どっちかだって、宿屋の女中さんが言ってたよ」「ふうん、怖いわね」
「うん」
「じゃあ、逆に自分の死体を人に見られたくない人はここで死ぬといいわね」
彼女が呟くように言った。
二人はしばらく話を止めて、ぼんやりと海を見ていた。耳を澄ませると、磯にぶつかる波の音が遠くに聞こえていた。
やがて、水平に上下を区切った空と海の間から、こぼれ出るように早朝、船出していった漁船の群が湾を目指して、帰ってきた。
「あっ、船だわ」
彼女が言った。                          「朝、出ていったヤツだね」                     「なん艘いるかしら」
「そりゃ、出ていった数だけいるさ」
彼が笑いながら、そう言った。
彼女はその冗談には耳を貸さずに、立ち上がって切り立った崖の間を崖っぷちの方に向かって歩いていった。右手の人差し指を目の前に持ってきて、一つ、二つ、三つ、と船の数を数え、
「ねえ、だんだん近づいて来てるわよ」
海を見ながら彼に言った。彼女につられて彼も立ち上がり彼女の背後から、
「ウン」
気のない相づちを打った。
やがて、彼はいたずらを思いついた子供のようにニヤニヤ笑いはじめ、彼女の両肩にポンと両手を下ろして、
「はあっ!」
大きな声を上げて、彼女を驚かせた。
「きゃあ」
彼女は悲鳴をあげた。それからくるりと彼の方に向き直り、
「ばかあ」
と言った。
「ごめん、ごめん」
彼はくりかえして謝った。彼女は、両手にげんこつを作り、彼の胸を叩きながら、
「ばか、ばか、ばか、……」
そう言い続けた。大粒の涙が、彼女の目からぽろぽろと流れはじめた。
「ごめんね」
少し間をおいてから、彼はもう一度、そう言った。
彼女はもう、バカとは言わなかった。けれども、涙は止まらなかった。
彼は、彼女の髪のにおいを吸い込みながら、彼女を引き寄せた。
「目をつぶってごらん」
と彼は言った。
彼女はしゃくり上げながら、言われたとおりにおとなしく目を閉じた。
彼は彼女を抱擁し、こわばった唇にそっとくちづけた。

●一九六八年 三月

………………………

【作品03】 標的

些細なことで喧嘩して、わたしたちは別れた。その日から、わたしたちはもはや恋人ではなく、わたしはひとりでお茶を飲み、ひとりで旅した。

そのひとり旅の、帰るべき旅の日の朝、山間の宿屋の周囲を非常に白く濁った霧がつつんだ。わたしは朝のまだ、霧の引ききらない谷間を散策して、自分の心のもっとも深い部分に沈んで、淀んでいるさまざまの言葉を思い出し続けた。

思春期の初恋、少年の体臭に満ちた剣道場、愛した女、愛していなかった女、真面目な友人、遊び仲間、裏切り、誤解、とうとう抱けなかった女、好きでもないのに抱いた女、……それらいっさいの恥に満ちた日々の錆びかけた記憶。

確かにわたしにも、港を目指して突き進む船でありたいと願った日々がなかったわけではない。例えば、人がいずれ港に帰るべき船であるのならば今のわたしの、港はどこだ。わたしはどこを目指したらよいのか。そしてもし、わたしが方向を知るための羅針儀も、六分儀も、海図も、なにもかも失って未知の海洋を漂流する難破船なのかも知れなかった。だとしたらわたしは、もはや賭けるべき掟も情熱もなく、流れさまようことを最後の禁忌として、それ以外の義務のなにものをも自分に課することなく、生きてゆかねばならぬと決意した日に、わたしの世界のもっとも深い部分で、自分の青春と理想を絞殺したといってもよかった。

そして、その旅のある一日の昼間、焼けつく太陽の日差しを避けた町の片隅に見つけた弓道場で、わたしは弓をひいた。先端のおそろしく鋭利な矢をつがえて、わたしは弓を引き絞る。矢は正確に的に突き刺さるがよい。自分のなかで、すでに理想を絶息させ扼殺した思弁にとって、標的もまた、無意味であった。もはや、この後のわたしの、肉体がいかに鍛えられようともそれは無益なことだった。わたしは虚しく年老いていくばかりであった。

その旅の一日の最後の夜、わたしは夜更けに町はずれの屋台でうどんを食べ酒を飲んで夜道を歩いた。その時、わたしが考えていたのは、もう二度と復活しないはずのわたしの標的のことである。酔いに痺れた頭のなかで、次第に形をあらわにしていった一つの言葉があった。そして、それをわたしは闇に向かって叫んだ。ああ、かくめいよ! かくめいよ! 失われたわたしの港。いかなる意味でも、わたしはそこにたどり着くことはないだろう。

その日の夜もまた、山の斜面をつたって、谷間にむけて絶え間なく霧が流れた。わたしは夜道に立ち止まって、せき込みながら、しばらく嘔吐を繰り返した。はやく東京に帰ろうと思った。この夜が明けることは永遠にあるまいと思った。

一九七一年・・月

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