グラム・パーソンズ、そして、ジョシュア・トゥリー(後編)
今日「アメリカーナ」や「ルーツロック」と言われる音楽の歴史を語る際、無視できない人物のひとりがグラム・パーソンズだろう。前回の記事では、「カントリーロック」のパイオニアと言われる彼がどのような音楽をつくってきたのか、そして、そこに至るまでどのような人生を過ごしてきたのか、その断片を紹介した。今回は、彼の命をわずか26年で奪うことになった非業の死にまつわるエピソードと、その背景にある、ある場所の存在について語ってみたい。
1973年9月、2枚目のソロアルバムのレコーディングを終えたグラム・パーソンズは、次のツアーまで1カ月ほどのオフタイムがあった。この時、彼が休暇で向かったのは、ロサンゼルスから東に2時間ほどの荒涼地帯にあるジョシュア・トゥリー・ナショナル・モニュメント。「ジョシュア・トゥリー」というのは、アメリカ南西部からメキシコ北東部の草原地帯に生育するユッカの木の一種「ユッカ・ブレビフォリア」の別名。モルモン教の入植者がその姿を約束の地を指す預言者ヨシュア(ジョシュア)の姿に喩えたところからその名が付いたという。ジョシュア・トゥリー・ナショナル・モニュメント(国定記念物)は、カリフォルニア州南東部にあるこの木の生息地一帯を保護する目的で制定された国定公園。ロサンゼルスから車で2時間というほど良い距離感と、よその惑星に降り立ったような不思議な景観もあって、LA方面から休暇に訪れる人も多いようだ。70年代初頭には、UFOを見れる場所としても注目を浴びていた。さらに、今で言う「パワースポット」として、スピリチュアルなものを感じさせる要素もあり、当時のヒップな若者が「トリップ」するのにはもってこいの場所だったようだ。あのイーグルスが72年のファーストアルバムのカバー撮影に訪れたのもこの地だ。そう言えば、そのアルバムに収められていた、サウスウェスト情緒溢れるレイドバックした曲「Peaceful Easy Feeling」(ジャック・テンプチン作)には、「今夜 満天の星空の下 君と一緒に荒野で寝たいんだ」という一節もあった。
グラム・パーソンズもバーズ時代から度々ここを訪れていた。自身の音楽を「Cosmic American Music」(宇宙的アメリカ音楽)と呼んでいた彼にとって、ここの惑星的な空間は魅力的だったはずだし、スピリチュアルなものも感じていたようだ。クリス・ヒルマンやミッシェル・フィリップス、キース・リチャーズらとも、それぞれこの地を訪れていたグラムだが、この1973年9月のトリップで彼に同行したのは、高校の同窓生だったマーガレット・フィッシャーという女性ともう一組のカップル。この頃、グラムは2番目の妻グレッチェンとの離婚を進めようとしており、その一方でマーガレットとは親密な関係になっていた。(ちなみに、グレッチェンは、グラムの死後、後にニッテッィ・グリティ・ダートバンドのメンバーとなるボブ・カーペンターと再婚している)
グラムがジョシュア・トゥリーで定宿にしていたのは、ハイウェイ沿いにあった「ジョシュア・トゥリー・イン」という何の変哲もないモーテル。この時も、いつものように大量のジャック・ダニエルズとテキーラ、そして地元で調達したヘロインを部屋に持ち込んだという。グラムが酒とドラッグで意識を失うことはそれまでにも度々あったようだ。この時も、失神状態だったグラムの下腹部に氷片を載せるというマーガレットによるいつもの対処法で、彼は一旦意識を取り戻す。しかし、この時、グラムはモルヒネも打っていた。再び意識を失った彼は、眠っている間に息づかいが荒くなり、そのまましばらくして息絶えた。
グラムのファンに広く知られている伝説的エピソードが始まるのは、ここからだ。グラムの亡き骸は一旦ロサンゼルスに運ばれるが、そこから飛行機でニューオリンズに移送されることになった。彼の数少ない身内となっていた義父ボブ・パーソンズが自分の居住地ニューオーリンズで埋葬すると言ったからだ(そうすることで、グラムの遺産がボブの手元に入ることになるからだったという説が有力)。しかし、グラムの亡き骸を収めた棺は、ニューオリンズ行きの飛行機に載せられる直前、LA国際空港で何者かに盗まれてしまう。
棺を盗んだのは、グラムのロードマネージャー・フィル・カウフマンだった。カウフマンは、ストーンズが『Beggars Banquet』の録音でLAに来たときにミック・ジャガーの送迎運転手を務めていた人物で、キース・リチャーズの紹介でグラムのロードマネージャーになっていた。ミックやグラムから「エグゼクティブ・ナニー」(「お守(も)り担当重役」)と呼ばれていたカウフマンだが、彼のそれ以前の経歴はと言うと、ハリウッドで端役の俳優をしていた頃にマリファナ密輸の罪で刑務所に入っている。この時の獄友のひとりがあの狂人チャールズ・マンソンだったというから、かなりの曲者だ。
カウフマンは、グラムの棺を自分の車に載せると、再びジョシュア・トゥリーへと向かった。そして、公園内の「キャップ・ロック」という岩場まで辿り着くと、そこで棺を下ろし、ガソリンを撒いて火をつけた。大きな火柱が上がったのを見て、カウフマンは慌ててその場を立ち去ったという。しかし、グラムの遺体は完全には焼けなかった。翌朝、丸太が燃えているようだと通報したキャンパーたちによってこの事件が発覚。まもなくカウフマンは逮捕され、焼け残った遺体は、当初の予定通りニューオーリンズに運ばれ、同地で埋葬された。
なぜカウフマンがこんな行動を起こしたか。それには伏線があった。グラムは、72年から73年にかけて3人の友人を相次いて失くしていた。ひとりは、50年代に子役として映画『シェーン』にも出演していた俳優・ブランドン・デワイルド。彼は一時グラムのインターナショナル・サブマリン・バンドをバックにレコードを出そうとしたこともあったようだが、72年7月に自身が運転していた車で事故死。30歳だった。2人目は、心臓発作で亡くなったというシド・カイザーという人物。彼はLAのタレントエージェントで、デラニー&ボニーとも関係があったようだが(デラニー&ボニーの『Accept No Substitute』の裏ジャケに彼への謝辞が見られる)、質の良いドラッグを調達することに長けていたという。
そして、3人目が後期バーズのギタリストだったクラレンス・ホワイト。クラレンスは、バーズ解散後、兄ローランドたちとのブルーグラスバンド「ケンタッキー・カーネルズ」を新たな形で再結成、ソロレコーディングも進めていた。しかし、そんな矢先の73年7月、ギグを終えて機材を車に積み込もうとしていたところに飲酒運転の車が突っ込み、非業の死を遂げてしまう。クラレンスの死にショックを受けたグラムは、彼の葬式の際、自分のおもり役になっていたフィル・カウフマンにこう言ったという。「もしこんなことが俺の身に起こったら、俺の遺体は荒野で燃やしてくれ」
グラムの死のひと月前の73年8月に行われた2枚目のソロアルバムのレコーディングでは、失った3人の友人たちに捧げられたヴァースを1節ずつ歌う曲が録音された。しかし、その曲「In My Hour Of Darkness」が陽の目を見ることになった74年1月には、グラム本人がもうこの世の人ではなかった。エミルー・ハリスとリンダ・ロンシュタットがコーラスに、バーニー・レドンがドブロで参加したこの曲では、クラレンス・ホワイトに捧げられたセカンドヴァースの歌詞が、まるでグラム自身のことを歌っているように聞こえる。
こんなドラマチックな死を遂げたグラム・パーソンズをそこまで虜にしたジョシュア・トゥリーとは、一体どんな場所だったのか。私がベン・フォン・トーレス著のグラム・パーソンズの伝記を読んだのは96年だったが、10代の頃からアメリカの「荒野」に憧れていた私は、自分の目でジョシュア・トゥリーという場所を確かめてみたくなった。いや「目で確かめる」というよりは、その空気感に触れてみたかったと言う方が正確かもしれない。
西暦が1900年代から2000年代に変わろうとするその年末。私はジョシュア・トゥリーに行くことを最大の目的に、グラム・パーソンズの伝記を片手にロサンゼルス行きの飛行機に乗った。ちょうどその頃LAに友人が住んでいたのと、その少し前にちょっとした失恋をしたのもあって、急遽思い立った旅だった。LAに着いたのは12月30日だったと思う。LAはその時で4度目だったので、市内に特段目当ての場所はなかった(今なら、前もってライブ情報などチェックしそうなものだが)。大晦日の夜、ミレニアルのカントダウンを記念してハリウッドサインのところでライトアップをするという情報が流れ、それを見にサインの麓の住宅地まで行ったことは覚えている。大文字の送り火を見るような雰囲気でたくさんの人が集まっていたが、どんなライトアップだったか記憶が曖昧だ。情報がガセネタで、実際には何もなかったのだったかもしれない。
そんな感じで2000年の正月を迎え、たしか元旦の朝だったと思うが、ジョシュア・トゥリーへと向かった。今考えると、なかなか特異な初詣だ。LAからインターステイト・ハイウェイ10号を東に向かったのだと思うが、途中の風景はあまり印象に残っていない。学生時代と違って、この頃になると純粋な感動の気持ちが薄れてしまっていたせいだろうか。2時間弱でジョシュア・トゥリー方面への分岐点に着いた。ちょうど昼前だったので、少し寄り道をしてパーム・スプリングスのアウトサイドテラスがある店で昼食をとった。パームスプリングスは荒野の中に作られたリゾートタウンで、ゴルフやテニスの大会、コンベンションなどがよく行われている町だ。
植栽に溢れたパームスプリングスから州道62を北に向かうと、いよいよ荒野感が増してきた。とは言え、それこそユッカ系の樹木が点在しているし、車も結構多かったので、それほど寂寞とした印象はなかったように思う。ほどなく、国定公園の北西の入り口手前にある「ジョショア・トゥリー」という町(集落)に着いた。町のメインストリート(ハイウェイ62)に沿って、グラムが亡くなったモーテル「ジョショア・トゥリー・イン」を一通り探してみたが、見つけることができなかった。
一旦諦めて、ナショナル・モニュメントの入り口に向かった。車で公園に入ると、ジョシュア・トゥリーの木が『星の王子さま』のバオバブの木のごとくニョキニョキと生えていて、確かに他の惑星に来たような雰囲気だ。その日は薄い雲が棚引いている程度の青空だったが、真冬の日差しは弱く、早朝に撮影したというイーグルスのアルバムカバーと同じような透明感が感じられた。
公園内で目指したのは、フィル・カウフマンがグラムの遺体を燃やしたという場所「キャップ・ロック」。しかし、公園の入り口でもらった地図に「cap rock」の文字はなかった。それらしい岩を探して公園内を彷徨う。今、Wikipeidaで「ジョシュア・ツリー国立公園」を見ると、その面積は「東京都の約1.5倍」とあるが、それほど大きいという印象はなかった。車道になっている箇所の4分の1くらいは走ったと思うが、特に標示もなく、「キャップ・ロック」を特定することはできなかった。その名前からしておそらくそうではないかと思って撮った岩の写真が下のものだ。真冬だったこともあろうが、周りに人影はほとんんどなかった。
結局、公園内でグラム・パーソンズの明確な痕跡を見つけることはできなかった。仕方なく公園を後にし、再び「ジョショア・トゥリー・イン」があるはずのジョショア・トゥリーの町に戻った。ハイウェイ62がこの町を通るのはほんのわずかな距離だ。端から端まで3キロ程度、時間にすれば5分ほどだったろうか。その左右をくまなくチェックしたつもりだったが、やはりそのモーテルは見つけられなかった。この時すでに午後4時頃。冬の太陽は西に傾きつつあった。公園の内外ではっきりとした痕跡を何も見つけられなかったという失意とともに、私はロサンゼルス、そして日本へと戻った。
それから四半世紀。今回、初めてGoogleで「Joshua Tree National Park Cap Rock」と検索してみた。トップに表示された米国国立公園局のサイトに出てきたのが、下のページだ。
どうやらあの時の私の推測は間違っていなかったようだ。今回この記事を書くことで、自分があの「伝説」の地に実際に立っていたことを初めて証明することができた。一方、「ジョショア・トゥリー・イン」の方はどうかと言うと、なんと営業していてウェブサイトがあった。ロゴにはご丁寧にギターの図案まで描かれている。グラムが亡くなった8号室に泊まれる上、ギフトショップのページでは彼のTシャツまで販売されている。
ホームページに特に記載はないが、これはおそらく近年のグラム・パーソンズのカルト的人気にあやかって、かつてのモーテルを再興させたものではないだろうか。私が彼の地を訪れた当時、グラムの伝記とともに携帯した『American Rock 'n' Roll Tour』というロックの名所をまとめた本の「ジョシュア・トゥリー」の箇所を改めて確認してみると、次のように記載されていた。
「ジョショア・トゥリー・イン」を「ジョシュア・トゥリー・モーテル」と誤記載していることはともかく、「かつて……だった場所」(what was the Joshua Tree Motel)という表現から、この本が出版された時点で、そのモーテルは少なくとも73年当時と同じ形では存在していなかったと考えられる。
もし私が今そこを訪れたとしたら、伝説の地を容易に見つけられた代わりに、そのあからさまなプレゼンテーションに逆に興醒めしてしまったかもしれない。そう考えると、確証的なものが何も見つけられなかったあの旅も決して悪いものではなかったのかもしれない。
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