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『アーバン・カウボーイ』への私的考察:(3)番外編「ギリーズ」訪問記 ─ つわものどもが夢の跡

映画『アーバン・カウボーイ』についてのシリーズ・コラム第3回。今回は、映画の舞台となったテキサス州ヒューストン郊外のホンキートンク「ギリーズ」について、そこを訪れた際のエピソードを中心に紹介したい。(シリーズ前2回の記事については、下記参照ください)

ジョン・トラボルタ主演の映画『アーバン・カウボーイ』(1980年)は、その数年前に同じトラボルタ主演で大ヒットした『サタデー・ナイト・フィーバー』の舞台をブルックリンのディスコからテキサスのホンキートンクに移したような内容だった。ホンキートンクと言うのは、カントリー・ミュージックを演奏するナイトクラブのこと。そして、この映画の舞台となったのが、ヒューストン郊外の町、パサディナに実在していたホンキートンク「ギリーズ」だった。

ギリーズ(Gilley's)という名称は、その店の共同オーナーとなっていたカントリー・シンガー、ミッキー・ギリーの名前を取ったもの。私が彼の名を知ったのは『アーバン・カウボーイ』がきっかけだが、ミッキー・ギリーは50年代末から活動してきた人で、初期ロックンロール/ロカビリーの悪童ジェリー・リー・ルイスのいとこにあたる(テレビ伝道者のジミー・スワガートも彼らのいとこ)。ミッキー・ギリーの場合、カントリーと言っても、いとこ譲りとも言えるブキウギ調の曲や古いR&Bカバーなどが多く、『アーバン・カウボーイ』のサントラに収録されてヒットしたのも、ベン・E.キングの「Stand By Me」のカバーだった。(私がこの曲を知ったのは、実はこのミッキー・ギリーのバージョンが最初。ちなみに、ジョン・レノンがこの曲をカバーしたのが1975年。同名映画のヒットで原曲に再びスポットが当たったのが1986年だった)

映画は、ジョン・トラボルタ扮するバドという青年が、テキサスの田舎町から石油精製工場で働くべく、叔父を頼ってテキサス最大(全米4位)の都市ヒューストンにやって来るところから始まる。バドは叔父に連れられてやってきたギリーズで、デブラ・ウィンガー扮する地元の若い女性シシーと出会い、恋に落ちる。ギリーズは6千人収容のナイトクラブで、その大きさは約1,350坪(テニスコート約17面分)。中央にステージがあり、その前が広大なダンスフロア、奥にはビリヤード台やパンチング・マシン、ビンボール・マシン、ビデオゲーム機などがずらりと並んでいた。店にはトラック・ドライバーたちのためのシャワールームもあったという。長距離トラックのドライバーたちも多く集っていたからだ。そして、この店の(音楽以外の)最大の呼び物だったのが「メカニカル・ブル」というロデオを擬似体験できるマシン。『アーバン・カウボーイ』では、主人公たちがこのメカニカル・ブルで技を競う。プロット的には、メカニカル・ブルが『サタデー・ナイト…』におけるダンス・コンテストのような位置付けになっていた。

ギリーズのステージには、共同オーナーであるミッキー・ギリーや看板歌手だったジョニー・リーのほか、週末になると、全国的に知られたカントリー・アクトが出演していた。実際、『アーバン・カウボーイ』公開に先立つ1977年の時点から全米のカントリー局ネットで『Live From Gilley's』という週1回のラジオ番組があったほどだ。私も、後にアイダホに留学した際、地元のFMカントリー局でこの番組を聞いた。この番組に最初に偶然チューンインした時に流れていたのが、当時名前も知らなかった、デビュー間もない頃のライル・ラヴェットのライブ。彼の曲の素晴らしさに、慌ててカセットテープに録音したのを覚えている。

中学時代からカントリー・ミュージックに入れ込むようになった私にとって、ホンキートンクは憧れの場所だった。日本にもそういう場所はなくはなかったが、時代は「マハラジャ」が全盛に向かう1980年代半ば。カントリーのライブハウスに一緒に行ってくれるような友達もなく、私の思いは一気に本場アメリカのホンキートンクに飛んだ。そうこうしているうちに大学3年を終えた私は、1年間の語学留学に先立って「アメリカ探し」+「自分探し」のひとり旅に出た。1987年3月のことだ。この旅については過去の記事でも断片的に触れているが、「アメリカ探し」と言うのは、自分が映画や音楽の世界で触れてきた古き良きアメリカの心のようなものがその時代にもまだ存在するのかという探索。そして、「自分探し」と言うのは、初めて訪れる異国で自分ひとりでどこまでできのるかという模索だった。今にしてみれば、何とも青い限りだが、その青さと言うのは、例えば、ジャクソン・ブラウンの「Farther On」やジェイムス・テイラーの「Country Road」、ニール・ヤングの「Heart of Gold」といった70年代初頭のシンガーソングライターたちの歌に自分を重ねたものだった。

この旅では、サンフランシスコからグレイハウンドでリノ、そしてソルトレイク・シティへ。そこでレンタカーを借り、ワイオミング、ネブラスカ経由で、セントルイス、メンフィス、ナッシュビル、ニューオリンズを訪ねた。そして、ニューオリンズからバトンルージュ経由でインターステイト・ハイウェイ10を西へヒューストンへと向かった。そこへと向かう風景は、その頃イメージしていた、いかにも「テキサス」という荒野ではなく、スワンプ地帯の森の中を愛想なくぶち抜くハイウェイという趣きだった。(ニューオリンズを訪れた際の記録は、下記参照ください)

バトンルージュからヒューストンに向かうハイウェイ I-10

ニューオリンズ郊外の町を朝9時頃に出て、夕刻にはヒューストンに着いたと思う。ヒューストン市内に特段行きたいと思うところはなかった。一応、世界初のドーム球場「アストロ・ドーム」を見ようと、その横を通る環状ハイウェイから球場の写真は撮っている。が、特に市内を見て回ることもなく、そこからそのままギリーズがある郊外の町パサディナに向かったと思う。(当時の『地球の歩き方』にギリーズのことは一応紹介されてはいたが、住所表記しか載っておらず、インターネットのない時代にどうやってその場所を探して行き着いたのか、ネットに慣れきった今考えると不思議なくらいだ)

ギリーズは、スペンサー・ハイウェイという通り沿いにあった。ハイウェイと言っても、車のディーラーや外食店が点在するバイパス道路のようなところだ。何れにしても人々が歩いて来るようなところではない。今考えると、こういう所に酒場があるのは奇異だが、当時はみんな平気で車でやって来ていたのだろう。私はギリーズのすぐ隣にあるモーテルに投宿した。そこにモーテルがあることを知っていて計画したのか、たまたま隣にあったのかは思い出せない。アルバムに挟んであったモーテルのレシートを見ると、午後6時43分にチェックインしている。夕食をどうしたのかも覚えていない。

ギリーズの横にあったモーテルの看板とレシート

ギリーズは、平屋建ての広大な倉庫家畜舎のような建物だった。今でこそ郊外型スーパーやホームセンターなどの大きな建物は日本でも珍しくないが、当時の感覚では、その大きさは度肝を抜くものだった。何もかも大きいのが「テキサス・サイズ」とよく言うが、アメリカのホンキートンクとしても規格外の巨大さだっただろう。

翌朝撮ったギリーズの外観(サイズ感がおわかりいただけるかと思う)

最初にギリーズに足を踏み入れた時の印象は、残念ながらあまり覚えていない。モーテルのレシートの日付は、1987年3月19日となっている。調べてみると、その日は木曜日だった。ウィークデイということもあって有名アクトの出演はなく、ハウスバンドらしきバンドが演奏していた。客の数もまばらだった。店の前の看板には、私が大好きだったピュア・プレイリー・リーグがほぼ1週間後の27日の出演となっており、彼らがこの時期まだ活動していたことに驚くとともに、もう1週間遅ければと思ったものだ。

通り沿いの大看板
ステージ

まずはカウンターに行ってビールを注文したと思う。カウンターでビールを飲んでいても、デブラ・ウィンガーのような美女が「あなた本物のカウボーイ? 踊らない?」と声を掛けてくれるわけでもなく(声を掛けられても踊れないが…)、しばらくは、ただ音楽に身を委ねていた。その後、どこでどういうタイミングだったか覚えていないが、隣にいた男性二人連れと話をした。年配の(と言っても今思えば40代後半くらいか)恰幅のいいおじさんと長身に口髭の若い頃のジム・フォトグロのような雰囲気の30歳前後の男性。彼はトムという名前だった。ふたりは東部バージニア州から荷物を運ぶ途中の長距離トラック・ドライバー。おじさんの方が親方で、トムが助手だった。彼らも隣のモーテルに泊まっているという。

しばらく話をするうちに「メカニカル・ブルをやってみたら?」ということになった。マシンの周囲には、転落した際の保護用ウレタン・マットが敷き詰められている。最初は少し尻込みしたが、はるばるここまでやって来てやらない手はない。自分一人でブルに乗るだけでは空しいが、一応見ていてくれる人がいることが後押しになった。ブルの動きは、初心者向けとかに調整してもらえたのだと思う。何とか振り落とされることなく、最後まで乗り続けることができた(乗りこなせたとはいえないが)。ただ、翌日は全身筋肉痛だった。

ジョン・トラボルタ(サントラ盤ジャケット中面より)
筆者

その後、ふたりとはビリヤードも楽しんだが、帰りがけ、「俺たちのトラックを見てみるかい?」となった。アメリカの大地を駆けるトラック・ドライバーの生き方も、当時の私がある種の憧れを抱いていた世界だった。バック・オウェンスの「Truck Drivin' Man」やリトル・フィートの「Willin"」など、カントリーやロックの数々のトラッキング・ソングにも影響されていたし、現代のカウボーイのように捉えていた。そんなわけで、このオファーは、まさに願ったり、かなったりだった。駐車場に出て、停めてあった長距離トラックの運転席に乗せてもらった。それまで体験したことのなかった高い視点に驚くとともに、少しだけ「古き良きアメリカ」の心に触れられた気がした。

ギリーズの売店で買ったオムニバス・アルバム『Down At Gilley's』(1980年)
レーベルには、「Warner Special Products」と印字されている。一般のレコード店には置いていないものだったかと思う。サブスクにも音源はないようだが、YouTubeに1曲だけアップされていた。

今回、その後のギリーズについて調べてみたところ、私が訪れた翌88年にミッキー・ギリーと共同経営者(元々のオーナー)との間で争いが起こり、裁判沙汰になったという。裁判はミッキー側が勝訴し、彼が経営の実権を握ったものの、翌89年、利益が上げられていないという理由で裁判所から営業停止命令が下ったようだ。そして、その1年後、不審火による火災が発生し、建物は消失してしまったという。その後かなりの時を経た2003年、ミッキー・ギリーは新たにダラスにギリーズをオープン。2010年代にはラスベガスとオクラホマにも姉妹店を開いたようだ。しかし、ミッキーは2022年に86歳で他界。それぞれの店は現在も営業中のようだが、パサディナにあったオリジナル・ギリーズの跡地には現在、中学校が建っているという。


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